イオアン福音書1章43-51節 第5端(フィリポとナタナエル、弟子となる)より

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彼の時イイスス、ガリレヤに往かんと欲し、フィリップに遇いて、之に謂う、我に從え。 フィリップはヴィフサイダの人にして、アンドレイ及びペトルと邑(まち)を同じくせり。フィリップはナファナイルに遇いて、之に謂う、我等は、モイセイが其律法に、及び諸預言者が記しし所の者に遇えり、是れイオシフの子、ナザレトの人、イイススなり。ナファナイル之に謂えり、豈(あに)ナザレトより善き者の出づるあらんや。フィリップ曰く、來りて觀(み)よ。イイススはナファナイルの己に來たるを觀て、彼を指して曰く、視よ、誠にイズライリ人にして、詭譎(いつわり)なき者なり。ナファナイル彼に謂う、爾何に由りて我を知れるか。イイスス答えて曰えり、フィリップが未だ爾を呼ばざる先、爾が無花果樹(いちじく)の下に在る時、我爾を見たり。ナファナイル答えて彼に謂う、夫子(ラヴィ)、爾は神の子、爾はイズライリの王なり。イイスス答えて曰えり、我が爾を無花果樹の下に見たりと言いしに因りて、爾信ず、爾此よりも大なる事を見ん。又彼に謂う、我誠に誠に爾等に語ぐ、是より爾等は天開けて、神の使等が人の子の上に陟降するを見ん。


イコンは確かに私たち正教会の特徴とされています。テレビや新聞に採りあげられたこともありますし、教会にもイコンを見せてくださいと訪ねて来られる方がしばしばあります。それはイコンが珍しい美しいということで見に来られるのですが、それだけでは本当の意味でのイコンではなくなってしまうということも私たちは知らなければいけません。
私たちは美しいイコンをただ眺めるのではなく、頭を下げ十字を書き、跪き、接吻して祈ります。イコンはただの絵ではないからです。高価であるとか美術的文化的価値があるとかいうことではありません。イコンには救いの根源が秘められているからです。
プロテスタント教会の多くはイコンを用いません。「イコンは聖書が禁じている偶像崇拝に当たる」と思われているからです。実は正教会でも、726~843年にかけてイコンを用いることが禁じられた、聖像破壊運動(イコノクラスム)の時期がありました。東ローマ帝国皇帝がなぜ突然「聖像禁止令」を出したのかというと、神学的な主張は口実であって、大きな力を持っていた修道院勢力を弱体化させるためだったのではないかとも言われています。この時期に皇帝権力が強化され、教会をも支配するという「皇帝教皇主義(カエサロパピズム)」が主張されました。また、当時はイコン敬拝を守っていた西ヨーロッパとの関係が悪化し、東西教会分裂(大シスマ)へと繋がっていきますので歴史の分岐点になったとも言えます。古代の貴重なイコンの多くが破壊されてしまったことも含め、教会としては不幸なことでした。
政治的な思惑から始まった聖像破壊運動自体は信仰篤い人々の抵抗によって覆されていきます。それはイコンが信仰生活に必要であることが初代教会からの伝統として既に根付いていたからに他ならないのですが、このなかでイコンの神学的根拠が確立されたことは不幸中の幸いと言えるのかもしれません。すなわち、イコンを用いることは偶像崇拝に当たらないという「イコン敬拝の正当性」とイスラム教などが厳しく禁じる「かたちの無い、無限の神を絵に描くこと」が可能であることが明示され、イコン崇敬の勝利を高らかに宣言したことは「正教の勝利」とまで言えるほど大切なことであるとされたのです。

イコン崇敬の根拠は、325年のニケアでの第一全地公会からコンスタンチノーポリでの第六全地公会に至る議論の中で精錬されていった「救世主、神の子、ハリストスとはこのような方である」という確信から導き出されました。神はこの世を超越した唯一絶対の神、全能者であり、人間の知恵では把握できず、当然絵に描くこともできなかった。しかし神は私たち人間を深く愛し、真の神でありながら自ら完全な人間になった。すなわち童貞女マリヤからイイススとしてお生まれになった。視力や知恵で把握することのできない全能の神は、私たちと同じ人間になったのでその姿を絵に描くこともできるようになった、その姿には、人間となっても変わらなかった全能の神の性質が備わっている」ということです。
つまり、イコンに秘められた私たちの救いの根源とは、神がこの世に降誕してくださった(藉神)という歴史的事実のことです。ですので、ハリストス降誕以前は神を絵に描くことは不可能であり冒涜でした。しかし既にハリストスは降誕されたので「イコンは偶像である」と主張することの方が冒涜なのです。

理屈っぽい話になってしまいましたが、これはむしろ信仰は理屈ではないということを述べています。私たちの信仰というのは実際にはないおとぎ話ではなく、人間と神との生きたお付き合いのことなのです。ハリストスの降誕は、人間のほうから壊してしまった神と人との関係を神のほうが結び直してくださった、神のほうから私たちの所に救いに来てくださったということです。この神様の大いなる愛がイコンによって示されているから、イコンは正教会にとって大切なものなのだと言えます。
そして、神が自ら人間となって人間を救いに来てくださったことで、人間は神に向かって歩んでいく術を知ることができました。その第一人者は「イイススを宿した腹、イイススが吸った乳房は幸いだ」「そう、神の言葉を聞いて守る人は幸いだ」と言われた生神女マリヤであり、私たちと同じ人間でありながら天使よりも神様の近くに居られ、天の女王、転達者すなわち私たちの祈りを神に執り成すお方と呼ばれます。その他にも多くの聖人が私たちのために祈っておられます。彼らの姿もイコンに書かれます。
神が人間となって示された愛を、自分たちも身に付けたい、イイススのようになりたいと願い祈りつづけて生きぬいた人々が聖人としてイコンに描かれます。イイススが降りてこられまた昇っていった天と地の梯子、これをただ見てただ有難がっているだけではなくて、自分もハリストスを追いかけて昇っていった方々が聖人としてイコンに描かれます。イコンが証しているのはこの梯子、神化という梯子なのです。イイススハリストスは私たちを、高慢で欲深く自己中心的な醜く弱い姿のままで救ってくださるのではありません。私たちを謙遜で分かち合える者、愛する者として、美しく強いハリストスを衣た者に変えてくださる、それが救いです。
だから、福音書に先立って読まれるエウレイ書(ヘブル人への手紙)は、信仰を持って行動した人々、信仰の故に苦難を耐え忍んだ人々を称え、私たちも私たちの参加すべき競争を、イイススを仰ぎ望みながら、耐え忍んで走りぬこうではないか、と励ましているのです。これは明らかに、信仰をただの心がけの問題や、家の宗旨の継承という観点では見ていません。儀式として洗礼を受けて、朝晩お経のようなお祈りを欠かさなければ死後天国に行くというような話にはならないでしょう。まして、イコンを何枚揃えれば良いというような話でもない。イコンの勝利というのは、私たちの人間性が罪や悪に勝利し得るのだということに他ならない。それが正教の勝利なのです。私たちは信仰をただ持ってだけいれば良いのではない。信仰によって、馳場を、この競争を、耐え忍んで走りぬきなさい、しかしその先には良い報いがありますよというのが正教の勝利です。

(以下は、2022年3月時点での状況をもとに話していますが、その後も意図するところは変わりません)
ロシアがウクライナに軍事侵攻してもう二週間が経ってしまいました。私たち日本正教会と同じくモスクワ総主教庁のもとにあるウクライナ正教会は、ロシア軍の侵略行為をはっきりと非難し、自分たちがウクライナ政府とウクライナを守る軍隊、そして全てのウクライナ国民の味方であることをはっきりと表明しています。そして、モスクワ総主教庁のモスクワ総主教庁のもとにあるか、そうでないかに関わりなく、亡くなった兵士と一般市民のために祈り、困窮するすべての人たちに食料や必要物資を提供し、精神的ケアに努めておられます。
そしてモスクワ総主教キリル聖下に対しては、ウクライナでの流血を止めるためにロシア当局に強く働きかけてくださいと訴えておられます。また、ゼレンスキー大統領とプーチン大統領に、兄弟民族間の武力対立を終わらせ、停戦交渉を進めるようお願いしておられます。一貫して戦争を対話によって平和的に解決することを戦地の真っただ中で訴え続けておられるオヌフリイ府主教座下たちのウクライナ正教会のお働きに、私は寄り添いたいと思います。
戦争はこの世に存在する最大の悪である、とオヌフリイ府主教が10日の声明で仰っています。それは、隣人を神の似姿としてではなく、殺すべき敵として見ることを強いるものだから、と述べ、だから戦争を始める者を正当化することはできない、と訴えられました。ロシアによるウクライナ侵略は、人を神の似姿として見ることを否定する所業であり、正教の教えに根本的に逆らうことであります。この正教勝利の主日を迎えるにあたって、この罪悪を認め、悔い改め、一刻も早く停戦を実現させることが、正教徒として第一に為すべきことでありましょう。戦争反対、ウクライナに平和を。

父と子と聖神の名によりて、アミン。
(ステファン内田圭一)

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管轄司祭 ステファン内田圭一