ルカ福音書12章16-21節 第66端(愚かな金持ちの譬)より

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主は左の譬を設けて曰えり、或富める人に田畆の善く實れるあり、彼自ら忖りて曰えり、我何を爲さんか、蓋我が作物を藏むべき處なし。又曰えり、我斯く爲さん、我が倉を毀ちて、更に大なる者を建て、此の中に我が悉くの穀物と貨物とを聚めて、我が靈に謂わん、靈よ、爾には多年の爲に蓄えたる多くの貨物あり、息み、食い、飲み、樂めと。然れども神は彼に謂えり、無知なる者よ、今夜爾の靈を爾より索めん、然らば爾が備えし所の者は誰に歸せんか。凡そ己の爲に財を積み、神に於て富まざる者は是くの如し。


「無智なる者よ、今夜爾の靈を爾より索めん、然らば爾が備えし所の者は誰に歸せんか。」
聖金口イオアンは、この福音について「私たちは既に必要なだけの蔵を持っている。それは貧しい人々の胃袋である」と述べています。聖大バシリイも、「あなたの戸棚にあるパンは飢えた人々のものであり、使われずに吊るされたままのコートはそれを必要とする人々のものであり、クローゼットに積まれた靴は裸足の人々のものである。私たちが貯めこんでいるお金は貧しい人々のものである」と書いています。
 マトフェイ、マルコ、ルカの福音書は共通する記述が多く、同じような表現も見られるため「共観福音書」と呼ばれます。それでもそれぞれ特徴があり、ルカ福音書は異邦人の為の福音、富める者の為の福音とも呼ばれます。それはルカが有名な善きサマリヤ人の譬えなど、ユダヤ人以外の人々をイイススが褒めたエピソードを伝えているからであり、そして、しばしば貧しい人々を肯定的に捉え、富む者を批判し、富を貧しい人々に施すことで救われるというエピソードをいくつも伝えているからです。この、愚かな金持ちの譬え話も、ルカだけが伝えているエピソードです。
 キリスト教は、慈善活動を熱心に行う宗教として知られています。残念ながら私たち日本ハリストス正教会では盛んであるとは言い難いですが、世間の目では、救世軍の社会鍋やカトリックのマザーテレサを代表とする貧しい人たちのための活発な活動によってそう取ってくださっているようです。これはイイススが明らかにそう教えておられることです。飢える者に食べさせ、渇く者に飲ませ、裸の者に着せ、屋根のない者を宿らせよ、あなた自身と同じように隣人を愛しなさいとイイススははっきりと仰っているからです。


しかし私たちは自分の富をどれだけ貧しい人たちに分けようとしているでしょうか。私たちはさまざまの理由をつけて、自分の手元にとっておこうとします。一生懸命働いているのに貧しいという人には援助しても良いが、そうでない人が貧しいのは自業自得。助けたら却って本人の為にならない。そもそも私だってそんなお金持ちではない。人にあげるどころか自分が欲しいくらいだと。なるほど、まず自分と自分の家族が大事、そして友人。そのうえで一生懸命頑張っているけど報われない人が身近にいたならば助けてあげないこともないと。しかしそれでは、たとえば神の国を宴会にたとえたイイススが「今すぐに町の大通りや小道へ行って、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などをここへ連れてきなさい。道や垣根のあたりに出て行って、人々を無理やりに引っ張ってきなさい」とまで仰ったことの意味が解らないでしょう。神は、そこまでしなさいと言っているのです。つまり、施しは「私たちにとって必要」だということです。
自分自身と同じように隣人を愛しなさいという戒めを、私たちはどう捉えているでしょうか。それは、神がそう教えている、命令しているから、しなければならないのでしょうか。隣人を愛するという難しい課題をクリアすれば、神はご褒美に私たちをその国に入れてくださるというのでしょうか。そうではない。神の国は、隣人とともに居るところだからです。


私たちは神の国、天国についてどんなイメージを持っているでしょうか。それはもちろん神の御許であり、良いところでしょう。しかし、そこには誰が居ますか。神様と私の二人きり、ではないですよね。私の家族、親しい友人たちだけですか。私たちにとって好ましい人ばかりだと思いますか? それは都合の良い、勝手なイメージではないでしょうか。イイススは、しばしばサマリヤ人、異邦人の救いを語りました。私たちはそれが当時のユダヤ人たちにとってどれほどの躓きであったかに思い至ることができません。歴史的な経緯から、ユダヤ人とサマリヤ人は差別し合い交際はせず口もきいてはならないような関係でした。また身体障碍は罪の結果であり神が祝福していない印と見られていました。またイイススは娼婦や取税人といった、ユダヤ愛国主義者たちからは自分たちの誇りを汚す者と見做された人々と積極的に交際されました。彼らが偕に入れられるような神の国などお断りだと憤ったユダヤ人たちは少なくないでしょう。しかしこれは歴史的にすでに解決されてしまった、過去の偏見でしょうか。いいえ、私たちにも変わらず突き付けられている宿題です。
たとえば、19世紀ロシアの偉大な小説家ドストエフスキーもこの宿題を提示しました。彼は代表作カラマーゾフの兄弟の中で、主人公の一人イワン・カラマーゾフに「そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。」と言わせています。イワンは退屈しのぎに子どもを猟犬に噛み殺させた男や、お漏らしをした子供を放置して凍死させた親も入れられる、理不尽に苦しめられ殺された被害者が加害者を赦して抱き合うような天国などはまっぴら御免だと言い放つのです。それはまさに現在も、世界のあちこちで、そして私たちの中でもっともだとされていることではありませんか。それに対してアリョーシャ・カラマーゾフは「それを赦すことができる人がたった一人だけいる」と告げます。そう、ハリストスです。


ここは大切なところです。天国に入れる人を選ぶのは神様ご自身です。ハリストスご自身です。私たちではありません。私たちは、おそらく善良な、社会的常識もわきまえているし仲間内には親切で通っているでしょう、その私たちが、こんな人間は赦されるべきではない、こんな人間はあの世で厳罰に苦しむのが当たり前だと思って疑わないような人のこともハリストスは天国に招き入れておられるかもしれないです。おそらく、そうです。イイススがサマリヤ人に、異邦人に、娼婦に、取税人に救いを開かれたというのはそういうことなのです。私たちはそれを受け入れることができるでしょうか? それはどんな善行を為せと言われるよりも私たちの躓きになってしまうかもしれません。


聖師父のひとりミラノのアンブロシウスは、旧約聖書創世記の聖イオシフを例に挙げてこの課題に回答しています。エジプトの宰相となったイオシフは7年間の大豊作で得られた穀物を蓄えておき、次の7年間の大飢饉に備えた。蓄えられた穀物はエジプトの人々のために分けられ、また他の国からの求めにも応じて分けられた。そして、かつてイオシフを殺そうとし、故郷から追い出した兄弟たちにも分け与えられたのでした。旧約聖書の最初の書、世界と人類の創造から始まり神の民の起源が記された創世記は、このイオシフと兄弟たちの完全な和解で締めくくられます。イオシフはハリストスの予兆であり、この和解は天国の予兆です。天国は、私たちが隣人に自分自身を開くことから始まるのです。
イオシフの例に明らかなように、教会は財産をため込むこと自体が悪いことだとはしていません。その財産が何のために蓄えられているのか、そして最後には何のために使われるのかが問われているということです。例え話の愚かな金持ちが「私の穀物、私の倉、私のたましいよ」と自分のことにしか思いが無かったところにその愚かさと悪があります。私たちがそれほどの金持ちでなかったとしても、自分の金、自分の持ち物、自分の救い、自分のことにしか思いが無ければ、同じことです。
聖アンブロシウスは「私たちが携えていけないものは私たちのものではないのです。死後私たちについてくるのは、それまでの生き方によって霊自身が身につけた美徳だけです」と教えています。私たちがそれぞれの境遇、それぞれの立場において、心から神を愛し、「同じように」隣人を自分自身のように愛する生き方をしていくことによって、私たちのうちに天国、神の国が始まります。天国、神の国と訳されているバシレイアは、その場所そのものよりも、支配されている、神の業が行き届いているということを指します。そこに入れられるということは、私たちが神のような生き方を受け入れるということであります。自分だけ、自分たちだけで独占する生き方ではなく、多くの人、全ての人と分かち合う生き方を受け入れるということです。神がわたしに「わたしの天国」を与えてくれるのではなく、「神の国」に私が入れられる、隣人たちとともに私も入れてくださるということなのです。

父と子と聖神の名によりて、アミン。
(ステファン内田圭一)

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