ルカ福音書13章10-17節 第71端(体の曲がった女の癒し)より

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彼の時安息日にイイスス一の會堂に在りて敎を宣べたり。爰に十八年病の鬼を患うる婦あり、傴みて、少しも伸ぶ能わざりき。イイスス之を見て、呼びて之に謂えり、婦よ、爾は其病より釋かれたり。乃手を彼に按せたれば、彼直に伸びて、神を讚榮せり。會堂の宰、イイススが安息日に醫を施ししを熅りて、民に謂えり、工作を爲すべき日は六日あり、其中に來りて醫されよ、安息の日に於てせざれ。主彼に答えて曰えり、僞善者よ、爾等各安息日に於て其牛或は驢を槽より解き、之を牽きて飮わざるか、況やアヴラアムの女なる此の婦十八年サタナに縛られたる者の結を、安息の日に於て解くべからざりしか。彼が之を言う時、彼に敵する者は皆愧ぢ、衆民は彼が凡の光明なる行事を喜べり。


18年間も体がかがんだままの女が居ました。ある安息日に会堂で教えていたイイススはこの女を見つけ、イイススのほうから呼び寄せて直してやりました。
 このエピソードの直前に、イイススは「実のならないイチジクの例え話」をされています。ある人がぶどう園にイチジクを植えたが実をつけないまま3年が過ぎた。そこで切り倒すように園丁に言うと園丁はもう一年待ってほしい、肥やしをやってみるからと頼んだというものです。ある聖師父はこのイチジクの木はユダヤの会堂、イスラエル人の姿であると述べています。さらにこの例え話の前に、ガリラヤとエルサレムであった2つの不幸な事件について触れ、仰っています。「彼らがそんな目にあったのは誰よりも罪深かったからだと思うか? 決してそうではない。あなた方も悔い改めなければみな同じように滅びる」と。
ここで塔が倒れて死んだのが18人と記されていることと、この女の体が屈んだままだったのが18年であったこととは関連があります。この女性が何か特別に悪いことをしたから罰として病気になったのではないのです。世の中にはたまたま不運なことに思わぬ事故や事件に巻き込まれたり、何の落ち度もないのに病気や貧困になって苦しみ続ける人たちが確かに居られる。しかし、人の救いとは悔い改めて神を讃美する信仰に入ることであり、そのような不幸にたまたま巡り合っていないという人たちが救われているとは限らないのです。むしろ、悔い改めようとしないイスラエルのなかで、彼女は癒されて救いを得たというのがこの福音です。私たちもまた、今現在において不幸であるか否かに関わらず、悔い改めて神を讃美することで救われる者になりましょうと教えるものです。


ところが安息日とは、律法によると一切の仕事をしてはならない日、医療行為も行ってはいけないとされていた日です。ですから「敬虔な」会堂宰はイイススを非難するかのように人々にこう言いました。「働くべき日は六日ある、その間に直してもらいに来なさい。安息日にはいけない」と。それに対してイイススは、会堂宰を偽善者と呼んで反論しました。しかし、どうでしょうか。この女は18年間患っていたわけです。もちろん大変なことですが、たったもう一日待ってもらえば何の問題もなかったのではないかと普通は思うのではないでしょうか。会堂宰の言う通り、安息日は一週間に一度のことで、あとの六日ならばいつでも良いのですから、緊急性が無いのであれば明日また来てくださいというのはごく普通の感覚なのではないでしょうか。現代のお医者さんでもそうしますよね。
 というのは、イイススは律法などどうでも良いとは決して言わなかった。むしろ「私は律法を破るために来たのではない、律法を完成させるために来たのである」と言っていました。ならば、なぜ「わざわざ」安息日に癒しの業を行ったのでしょうか。


福音書にはイイススが多くの人々を癒したことが記されています。しかし個々のエピソードを見ていると、多くは本人或いは家族や友人などの熱切な懇願によって為されています。あるいは何らかの会話があります。癒す際には「あなたの信仰の通りになるように」「あなたの信仰があなたを救った」といった言葉があることが多い。イイススは人々の信仰を引き出し、その余禄として癒しを行うわけです。
ところが安息日にはむしろイイススのほうから病人を招き、治してやっています。この18年間体が屈んだままの女も、イイススの方から見つけて呼び寄せています。つまり、イイススは安息日にはそうすることこそ相応しいのだと、積極的に人を助け、癒し、救うべきなのだと教えているということです。


人々は安息日を誤解していたのです。実は安息日とはただ一切の仕事を休む日なのではありません。神を讃美するため、自分たちの利益行為を休む日なのです。イイススはこの女が神を讃美することができるように、手を置いて癒したのです。体が屈んだままであったことは、神を讃美することが困難な状態であったことを表します。18年間。ある聖師父は6かける3と解釈しました。3とはこの癒しのエピソードの直前にある「実のならないいちぢくの譬え」にある3年です。3年の間実をつけることのなかったいちぢくの木は切り倒される。6はこの場合、天地創造の7日間のうち、安息日を除いた6日を指しています。神に心を向けず、忘れてしまっている生き方という意味で使われています。
人は悩む時苦しむ時、下を向いているものです。上を向いて悩むことはできないのではないですか。下を向いて苦しんでいる時、人は自分の力でなんとかしようと、もがいてもがいて、さらに深みにはまっていきます。
この女が体を伸ばし、上を向いて神を讃美し始めたように、下を向いて悩んでいる者苦しんでいる者は上を向かなくてはなりません。自分の思いに凝り固まるのではなく、天をあおいで心を開き、神聖神の恩寵を願うのです。家庭でイコンを置く時、できるだけ目線より高いところに置くようにと教わっていると思います。この聖堂の十字架が高い屋根の上にひときわ高く据え付けられていることもそうです。
そして聖体礼儀では「心うえに向かうべし」と、言われます。私たちは神を讃美するために、主日に仕事をするのです。聖体礼儀のことをギリシャ語でリトルギヤと言いますが、これは神の民の仕事という意味です。誦経する人、聖歌を歌う人、短くなった燭台のろうそくを整理する人、神の民である私たちはみなで聖体礼儀をつくりあげるのです。ただの観客はいません。個人として神との対話に集中するのでもありません。私たちは共同の奉事を行うのです。この聖体礼儀という仕事によって、これまで下を向いて悩んでいた者、苦しんでいた者は癒されて立ち上がり、神と神の仕業を讃美する神の民として働きはじめるのです。


イイススから偽善者と看破された、「一見」敬虔な者に倣ってはなりません。「あなたがたは誰でも、安息日であっても、自分の牛やろばに水を飲ませるために引き出してやるではないか」と言われて彼らは恥じ入ったと記されています。しかし、彼らは何に恥じ入りましたか? 単に自分がしていることの矛盾を恥じたのでしょうか?
イオアン福音書は同じくイイススが安息日にヴィフェズダの池で38年間病んでいた男を癒した時、「父なる神は今に至るまで働いておられる。だからわたしも働くのである。」と仰ったことを記しています。神は安息日に何もしておられないわけではありません。安息日にも太陽は昇り、雨は降り、川は流れ、風が吹きます。それら全て神の業でしょう。安息日は神の為にあるのではなく、私たちのためにあるのです。神は安息日にも私たちの為に世界を動かし続け、私たちはそのうちに安息しているのです。隣人に無慈悲な私たちは、神の大いなる愛の前にこそ恥じ入るべきなのです。私たちが上辺だけの規則順守によって、隣人の安息を奪うならば、あるいはそのような者に加担するのならば、むしろ安息日を守らない者となるでしょう。
規則、決まりを盾にして、人の安息、喜びを奪う者になってはいけません。安息日のことだけではありません。日常生活のことにも、そして私たちが集う新約教会、現在の教会にもさまざまな規則、決まりがあります。例えば今、降誕祭前の齋の期間です。食事の節制をし、楽しみごとを控える。しかし齋は祭の前の準備であって、祭をより良くより相応しく祝うために行うことです。例えば、皆で食事をする前に自分だけ先に別のものを食べてしまっては、さあ皆で食事をしようとした時に美味しく食べられないでしょう、だからいけませんよという配慮です。しかし、人によっては少し食べていないととても保たないということはあるでしょう。神が定めた規則、決まりには目的があるのです。決まりそのものが決まりということはないのです。神は人のために安息日を設けられ、人のためにこれを守られた。目的を見失わないことが大切です。その為に、柔軟に決まりを守っていくことが必要です。
人が安息日の為にあるのではなく、人のために安息日があるのだとイイススは仰いました。それは、規則決まりなどどうでもいいということではありません。神が私たちの為にそれを定められ、私たちの為にそれを完成させられた、そのことに感謝し、神の創造の業、世の経綸に感謝し、自分だけでなく、また自分によくしてくれる者とだけでなく、神が造られた全ての隣人たちとともに神を讃美しましょうということです。それが私たちの喜ばしい喜びであり、救いなのであります。

父と子と聖神の名によりて、アミン。
(ステファン内田圭一)

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