ルカ福音書17章12-19節 第85端(癒されたサマリアのらい病人)より

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彼の時イイスス或村に入るに、癩病者十人彼を迎え、遠く立ちて、聲を揚げて曰えり、イイスス夫子よ、我等を憐め。イイスス彼等を視て、曰えり、往きて、己を司祭等に示せ。彼等往く時潔まれり。其中一人、己の愈されしを見て、返りて、大聲を以て神を讚榮し、イイススの足下に俯伏して感謝せり、彼はサマリヤの人なり。イイスス曰えり、潔まりし者は十人に非ずや、其九は何處に在るか、此の異族人の外、如何ぞ返りて、光榮を神に歸せざる。又彼に謂えり、起ちて往け、爾の信は爾を救えり。


イイスス・ハリストスは私たちに聖体礼儀の機密を与えました。機密というと何だか恐ろしいような感じがします。もともとはギリシャ語でμυστήριον、英語ではミステリーという言葉です。少し身近な感じがします。さらに、もともとμυστήριονとはむしろ「家族の食事の特別な親密さ」を表す言葉だったという説があります。家族の食事というのは特別なもので、他のどんな食事とも、たとえば献立がまったく同じであろうと、違う。その違いは具体的にどう違うと言えるものではないのだけれど、違う。そのことを表す言葉がμυστήριονで、それが転じて「構成員だけに明かされ、部外者には隠されるもの」という意味になったそうです。
人が生きていくために絶対に欠かせないものが「食事」であり、それをどんな時にも分かち合うことのできる集団を「家族」と言います。教会はハリストスそのものとなったパンと葡萄酒、すなわちご聖体を分かち合う「神の家族」です。教会とは日曜日ごとに神の家族が集まって食事を共にする、ということが原点なのです。
 そして聖体礼儀のことをギリシャ語でεὐχαριστ(ユーカリスト)と言います。これはギリシャ語で「ありがとう」という意味です。私たちは義務からではなく、大いなる喜びのうちにあり感謝するために聖堂に立っているのです。この喜びは家族であるという喜びです。神は私たちのために人間となりました。人間となった神は十字架に架かり、全ての人の苦しみを滅ぼしました。イイススは復活し天に昇りましたが、それは私たちをも復活の生命に与らせ、父と子と聖神の至聖三者のように、私たちを天の神の家族とするためです。
私たちは大聖入でパンと葡萄酒が捧げられる時、私たちの身になって、私たちを感謝とともに神の国にお連れくださる主を見出すのです。パンはイイススを記憶したもののほかに、生神女マリヤ、諸聖人、永眠した私たちの家族と生きてここにいる人、事情があってここに来られない家族も記憶されています。ハリストスを中心として全ての信徒が一つの神の家族となり、神の国に入っていく、これが聖体礼儀、感謝の祭りです。


この福音(ルカ17章12~19節)は10人の癩病者がイイススによって癒されたというものでした。彼らが遠く離れたところから「我等を憐れめ」と訴えたのは、当時において癩病は汚れたものと見做されており、触れた者も汚れるとされていたからでした。律法の規定でも癩病者は他の人々から離れて住まなければならないとされていました。そこで彼らは、村からもイイススからも離れた所から大声で「我等を憐れめ」と叫んだのでした。
イイススは彼らを見て、「行って、自分を司祭たちに見せなさい」と言いました。なぜかというと、癩病が治った時には司祭にそれを確認してもらうようにと律法に定められていたからです。しかし、この時点では、まだ癩病は治っていなかった。つまり、まだ治らないうちから、治ると信じて行動せよとイイススは仰ったのです。
イイススの言う通りに、この10人は癒されることを信じ、直ちに司祭のもとに向かいました。それは、私たちの間では「素晴らしい信仰」と称えられるようなことではないでしょうか。必ず治ることを信じる。イイススが仰ったことを実行する。神の教えを守る。そしてその素晴らしい信仰をもった10人は、司祭たちのもとに向かう途中で潔まりました。素晴らしい、まさに見ないで信じる者はさいわいと書かれている通りではないか。私たちも彼らのように、主イイススの言葉を守り、聖書の教えを守り、教会の教えを疑うこと無くその通りに実行していれば、絶対に神が報いてくださる。そう堅く堅く信じ、聖書が教えること以外は一切しない、それが信仰なのだというお話しでは「なかった」のです。


イイススの言葉を堅く信じて実行した10人、その10人全員が癒されました。おそらくそのうちの9人は言われた通り、そのまま司祭の所に行ってきれいになった自分の体を見せたのでしょう。しかし、1人だけがイイススに言われた通りにせず、イイススの所に戻ってきてひれ伏し、イイススに感謝しました。嬉しかったからでしょう。喜びのあまり、そうせずにはいられなかった。イイススは彼を、「なぜ私の言う通りにしないのか!」と怒ったでしょうか? いいえ、「清められたのは10人ではなかったのか、他の9人は何処にいるのか、この異族人の他に神を称えるために戻ってきた者はいないのか」と言った。そして、「立って、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。
 他の9人がどうしていたのか、実はわかりません。自分を司祭に見せてから、イイススの所に戻ってお礼を言おうと思っていたかもしれません。イイススにお礼を言いたかったけれども、まず言われた通り、決まり通りに自分を司祭に見せに行くことが優先だというのはごく普通の常識的な考えのように思えます。
 しかし、イイススが10人全員を癒したにも関わらず、喜びのあまりイイススのところに戻って感謝せずにはいられなかった1人について、「あなたの信仰があなたを救った」と仰った、ということが大切です。つまり、病気、苦しみから逃れること自体が救いなのではない。救いとは、喜びのうちにあって感謝することなのだということです。


正教会では「誰も1人では救われない」とさえ言います。救いとは、共に分かち合う人が居るということ、大切な家族、神の家族と共に「機密の宴に与る者」とされることです。だから、機密、μυστήριονを大切にしなければならないのです。一つの体とされるほどに親密な、信徒の集いと神との一致こそが、この教会という偉大な機密なのです。
 聖機密を、単に信者だけの特権であるとし、未信徒を遠ざける排他的なものと考えるのは不適当です。まさにそれは、イイススを十字架にかけてしまった誤ったイスラエルの選民思想の裏返しに過ぎない。機密は排除の論理ではなく、むしろ全ての人を神の家族に招き入れるためにあります。この福音でたった1人、あふれる喜びを抑えきれずイイススと分かち合いたいと戻ってきた人が異族人のサマリヤ人であったこともそれを証します。
 もちろん、まじめな信仰、一生懸命に聖書を読み、聖歌を歌い、教会が勧める善行を進んですることも大切です。戻ってきたサマリヤ人も、まずイイススの言うとおりに信じてその通りにしたからこそ、癒されました。
けれども、救いはその先にある、喜びから溢れでる喜びと、感謝せずにはいられない感謝とともにあるということなのです。
もし私たちが今は病に苦しみ、あるいは困難にあったとしても、共に生きる隣人、家族、教会家族とわずかな喜び感謝でも分かち合えるならば、どんな時にも私を見捨てない神の憐み、愛を知るならば、私たちの救いは「神の家族」であるという、その喜びと感謝の中に確かに表れてくることなのです。

父と子と聖神の名によりて、アミン。
(ステファン内田圭一)

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