マルコ福音書8章34節-9章1節 第37端(イエス、死と復活を予告する)より

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主謂(い)えり、我に従わんと欲する者は、己を舎(す)て、其十字架を負いて我に従え。蓋(けだし)己の生命を救わんと欲する者は、之を喪(うしな)わん、我及び福音の爲に己の生命を喪わん者は、之を救わん。蓋人若し全世界を獲(う)とも、己の靈(たましい)を損わば、何の益かあらん。抑(そもそも)人何を與えて、其靈の償と爲さんや。蓋此の姦悪の世に於て、我及び我の言(ことば)を耻(は)ぢん者は、人の子も其父の光榮を以て聖なる天使等と偕に來らん時彼を耻ぢん。又彼等に謂えり、我誠に爾等に語ぐ、此に立てる者の中には、未だ死を嘗(な)めずして、神(かみ)の國(くに)が權能(ちから)を以て來るを見んとする者あり。


大斎第三主日は十字架叩拝の主日と呼ばれています。大斎の真ん中に当たるこの日、聖堂の真ん中に十字架が安置されるのは、私たち自身が自分の中心に十字架を置かなくてはならないことを教えています。
私たちの日々の生活と、十字架を背負うということとは一見関係ないことのように思えるかもしれません。しかし、十字架というのは、派手な一瞬の苦痛、というだけではないのです。いいえ、むしろ十字架刑が最も残酷な刑罰と言われたのは、その苦痛が一瞬で終わるものではなくじわじわと長い時間をかけて苦しめ、死に至ったからだということはご存じでしょうか。
ロシア正教会が好む八端十字架を含め、長い横棒の下に短い横棒が付いている十字架があります。この短い横棒は足台を表しています。この足台で体重が支えられ、十字架上で長く苦しむことになるのです。ヨハネ福音書には、安息日である翌日までに終わるよう脚を折ろうとしたとありますが、脚を折ると体重が支えられなって自重による呼吸困難からすぐに死んでしまうのだそうです。足台があることは一見楽そうに見えるかもしれませんが、むしろ苦痛を長引かせる、十字架刑の残酷さを強調するものなのです。
カトリック小説家、遠藤周作の代表作に、江戸時代のポルトガル人神父が棄教する「沈黙」という作品があります。若きロドリゴ神父は死を覚悟して来日し、捕らえられた時も拷問を恐れず殉教する覚悟を持っていました。しかし役人たちはロドリゴ神父本人ではなく日本人信徒たちを拷問にかけるのです。役人たちは「彼らはすでに棄教すると誓っている。だが、お前が棄教しなければ拷問は止めない。お前次第だ。」と言うのです。結局ロドリゴ神父は棄教を宣言することになりますが、その時踏絵のなかのハリストスは「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」と語りかけます。ロドリゴ神父はその後日本名を与えられて80歳まで生き、最後は仏教で葬られますが、その人生は十字架を背負ったものではなかったでしょうか。むしろ自分を捨て、キリストに従い切った人生であったと言えないでしょうか。
そこまででなくとも、私たちも毎日の暮らしの中で少しずつ自分を捨て、神さまのため隣人のためにできることを少しずつでもしていくということはあるし、できるのではないでしょうか。それが自分の十字架を背負ってハリストスについていくということではないでしょうか。
現代の教会にも、さまざまな事情を持った方々が居られます。信仰を家族に反対されている方、信仰を持っていることを家族にも打ち明けられず内緒にしている方。或いは信仰に疑問をもっているのに言い出せないで苦しんでいる方、ウチは教会なのだと本人の意思を無視して洗礼を受けさせられた悲しみを忘れられない方。行きたくないのに教会に行かせられている方、教会に行きたいのに行くことの許されない方。皆さんが自分の十字架を背負っておられます。そしてその痛みを、ハリストスは分かち合ってくれています。
ハリストスは、私たち人間の全てを分かち合ってくださった方です。十字架叩拝主日に読まれる使徒経、ヘブル書での「大いなる司祭長イイスス」の姿はこのことを語っています。彼は私たちの弱さをまとってくださった神、私たちと同じように試みに遭ったくださった神です、と。罪は犯さなかったけれども、それ以外の全ての人間性を私たちと共にし、私たちと共に苦しんでくださる神なのです。

私たちと共に。そう、ハリストスは十字架に釘うたれ、苦しみを受け、葬られた。ハリストスが神であったのであれば、痛くもなかったし、復活するのも当然なのだから死も何てことはなかったのではと言う方もいます。そうではありません。ハリストスは私たちと同じように痛みを味わい、苦しみ、恐怖されたのです。「我が神、我が神、何ぞ我を捨てたる」とすら仰ったのです。父なる神にも見捨てられてしまうというこれ以上ない苦しみまで、私たちと共に分かち合ってくださったのです。
しかし、ここから復活が始まります。4世紀の偉大な神学者ナジアンザスの聖グリゴリオスは、ハリストスが私たちの全てを分かち合ってくださったことを称え、私たちはハリストスと共に死に渡され、ハリストスと共に死んだのだから、ハリストスと共に甦らされた! と叫んでいます。
ですから、十字架叩拝主日の祈祷はほぼ一貫して希望に満ちたものです。アダムの罪によって閉じられたエデンの入口が十字架によって開かれるものとなったこと、食べてはいけないと言われた樹の実を食べることによって死ぬ者となった者は、樹に掛けられた真の神と一致することによって真の生命を得る者となったと讃えています。カノンのイルモスはパスハのものが歌われます。「復活の日をもって人々よ、己を明かすべし」と。
正教会では常に、十字架と復活は表裏一体です。正教会のイコンにかかれる十字架上のイイススは西洋絵画にあるような苦悶の表情を浮かべていません。陰惨さだけを強調する必要が無いのです。正教会のイイススは、私たちの代わりに苦しんでくださる神ではなく、私たちと共に復活するために、私たちの弱さや苦しみまでをも共にしてくださる神だからです。イイススは十字架上で、両手を広げて私たちを招いておられるのだと、聖師父たちは言っています。この愛の中に、入ってきなさいとイイススは私たちを招いておられるのです。

「十字架を背負って生きる」というと、世間では自分が過去に犯してしまった過ちを抱え込んで、下を向いて生きていくというようなイメージがあります。そうではありません。イイススは罪が赦され、復活の生命を人々が生きるために、十字架を負って私について来なさいと示したのです。
ですから私たちも、神と隣人を愛し、両手を広げ胸を開いて全ての人の全てのことを受け入れる生き方を始めます。
その具体的な現れ方は人によって状況によって違います。ある時代ある人にとっては殉教することだったかもしれません。ある人にとっては汚名を着ながら生き続けることだったかもしれません。しかし神の目には全ての十字架は同じです。神を愛し、隣人を愛して、その手を差し伸べることです。イイススのように両手を広げ、胸を開いて、全ての人の全てのことを受け入れて、生きていくことです。
ただ、これだけは言えます。自分たちの価値観にそぐわない人たちを力で排除するような行為は、イイススの教えた生き方とは全く異なるものです。殊に、神が全ての人に平等に与えた生命の尊厳を暴力的に奪う行為は絶対に許されません。
戦争はこの世に存在する最大の悪です。それは隣人を神の似姿としてではなく、殺すべき敵として見ることを強いる、聖神に逆らう罪です。ロシアによるウクライナ侵略は、人を神の似姿として見ることを否定する所業であり、正教の教えに根本的に逆らうことであります。私たちはこの罪悪を認め、悔い改め、一刻も早く停戦を実現させることが、正教徒として第一に為すべきことです。
16世紀、雷帝と恐れられたイワン4世は、独裁政治を行い、次々と戦争を行い、反対する人々を弾圧し処刑しました。
多くの罪無き人々が殺されていくのを見たモスクワ府主教フィリップは、参祷する人々の前で公然と皇帝を批判しました。フィリップは投獄され、周囲の人々は皆殺され、フィリップ自身も処刑されました。しかしロシア正教会はフィリップを聖致命者として尊敬し、全ロシアの奇跡者として毎日記憶し、その祝福を祈ってきました。
プスコフの至福者聖ニコライは、イワン雷帝に生肉を食べるようにと差し出したといいます。皇帝が「自分はキリスト教徒だから齋に肉は食べない」と言うと、聖ニコライは「けれども人間の血は飲んでいるではないか」と答えました。
イワン雷帝はモスクワの聖ワシリイ大聖堂を建立するなど熱心な信仰者として知られていました。齋を守り、毎日長時間の祈祷を行っていたといいます。しかし、その行いはキリスト教徒に全く相応しくない、無慈悲で残酷なものでした。行いの伴わない信仰は死んだ信仰です。
私たちも同じです。もし完全な齋をしていたとしても、長時間の祈祷を続けていたとしても、戦争という最大の悪に目をつぶり、あまつさえ擁護するのならば、人間の血肉を飲み食らっているのであり、聖神の賜物を捨てているのです。戦争はこの世に存在する最大の悪です。神が全ての人に平等に与えた生命の尊厳を暴力的に奪う行為は絶対に許してはなりません。

八端十字架の上の短い棒についてもお話ししておきましょう。これはイイススの罪状書きを示しています。ここには「ユダヤの王、ナザレのイイスス」と書かれました。書いた者たちは冗談のつもりでこのような罪状書きをつけたのですが、イイススは復活してこの世と天、見えるもの見えないもの全てを司る万物の王であることを示されました。
正教信徒はパスハ前に敢えて肉食や娯楽を控える生活をします。これは一見、宗教を受け入れることの不自由さと感じられるかもしれません。そうではありません。
自由ということについて、現代人はしばしば、好きな時に食べ、好きなだけ飲み、強い快楽を無制限に楽しむことが自由であると勘違いしています。正教会ではむしろ、それは欲望の奴隷になっているのであって、欲求をコントロールできることこそが自由なのであると考えます。
他人や自分を傷つけてでも自分の欲求を通そうなどというのは欲望の奴隷状態に陥っているのであり、不自由の極みなのです。だから私たちは齋として、食を始めとした欲望の節制を試みています。宗教的な義務、戒律としてではなく、愛の表れの一つ、分かち合いの表れの一つ、自分の十字架を背負ってハリストスについていくことの一つとしてです。これも大齋の真ん中に当たるこの十字架叩拝主日に確認したいことです。

父と子と聖神の名によりて、アミン。
(ステファン内田圭一)

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