マルコ福音書9章17節-31節 第40端(汚れた霊に取りつかれた子をいやす)より

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彼の時或人イイススに就きて伏拝して曰えり、彼の時或人イイススに就きて、伏拜して曰えり、師よ、我瘖の鬼に憑られたる我が子を爾に攜え來れり。鬼は何處に彼を執うとも、投げ仆し、彼沫を噴き、齒を切み、體枯る、我爾の門徒に之を逐い出ださんことを請いたれども、彼等能わざりき。イイスス彼に答えて曰く、噫信なき世や、我何時までか爾等と偕に在らん、何時までか爾等を忍ばん、彼を我が許に攜え來れ。乃彼を攜え來れり、彼イイススを見れば、鬼忽彼を拘攣させ、彼地に仆れ輾びて沫を噴けり。イイスス其父に問えり、彼に斯く爲りしは何の時よりか。曰えり、幼き時よりなり。鬼は彼を滅さん爲に、屡火に又水に投じたり。爾若し何をか能せば、我等を憫みて、我等を助けよ。イイスス之に謂えり、爾若し幾何か信ずることを能せば、信ずる者には能せざることなし。童子の父直に涙を垂れて、呼びて曰えり、主よ、我信ず、我が不信を助けよ。イイスス民の趨せ集るを見て、汚鬼を禁めて、之に謂えり、瘖にして聾なる鬼よ、我爾に命ず、彼より出でて、再彼に入る勿れ。鬼號びて、甚しく彼を拘攣させて出でたり、彼は死せし者の若くなりて、多くの者彼死せりと云うに至れり。イイスス其手を執りて、彼を起したれば、彼卽立てり。イイスス家に入りし時、其門徒私に彼に問えり、我等が之を逐い出だす能わざりしは何の故ぞ。彼曰えり、祈禱と齋とに由らざれば、此の類は出づるを得ざるなり。彼等彼處を出でて、ガリレヤを過ぐ、彼は人の之を知らんことを欲せざりき。蓋其門徒に敎えて、人の子には人人の手に付され、人人彼を殺し、殺されて後彼第三日に復活せんと曰えり。


大齋に入って4番目の主日に記憶されるシナイの聖エカテリナ修道院長イォアンは、階梯者と称されます。階梯とは、はしご、階段のことです。それは階梯を昇るように信仰を高めていくことを教えたことによります。イォアンが書いた本は「天国への階梯」といい、その30章の一章一章は、霊がだんだん清まって神に近づいていく段階をなぞっています。この「天国への階梯」は修道士が大斎中に読むべき重要な書として知られています(日本語で読めるものとしては「中世思想原典集成3 後期ギリシア教父・ビザンティン思想」という本に部分訳があります)。

梯子や階段というのは、人が確実に高いところに登るために作られたものです。多くの聖堂の前方にも階段があり、奥の至聖所までは皆さんが居る場所から少し高くなっています。せいぜい数十センチメートルの高さですが、階段が付いていなければ、若者以外は登ることが難しいでしょう。階段があるおかげで多くの人が登ることができます。
多くの人ができる、というのが教会の大事なところです。もし、教会に於いて教えられることが一握りの選ばれた人だけにしかできないのであれば、それは教会というものが人類の救いではなくなってしまうということだからです。
階段を登るようにする、つまり段階を踏むということは、ある意味遠回りで、とかく全てがお手軽簡単であることを求められる現代社会ではまどろっこしく感じるものです。けれど、教会は一段一段登っていくことが大事であるということを様々なところで表しています。

ある聖人は毎週日曜日に歌われる真福九端、「主よ、爾の国に来たらん時、我等を憶い給え・・・」で始まる聖歌ですが、これも人が天への階段を上がっていく様子であると言っています。「神(しん)の貧しき者は福なり、天国は彼らのものなればなり」とは、まず人がいかに自分を霊的に貧しい者であるかを自覚することから霊の天国への上昇が始まるということを言っています。次に「泣く者は福なり」と、この貧しさの自覚を深め悲しむことです。そうして悲しんだ者は、他の人に優しくなれるでしょう。これが「温柔なる者は福なり」と続くわけです。そうして他の人たちへの優しさを持った人は自分だけの利益ではなく全体の利益を考えます、これが「義に飢え渇く者は福なり」です。というように説明されます。
正教会で行われるもっとも大切で中心となる祈りは聖体礼儀ですが、その聖体礼儀の前には前晩祷、朝の時課も行われます。そのうち晩課では神の創造に感謝し、早課では一日の平安を願います。それぞれの時課にテーマがあり、それらを順に体験していくことでこの世を越えて天と地が交わる所での偉大な機密、聖体礼儀に備えられます。
聖書も一度に全部読めといわれれば大変です。教会では新約聖書を端という区切りで分けて、一日一端ずつ振り分け、1年でだいたい全部読めるように指定しています。中でも重要な場所を毎週日曜日に当て、皆で読みましょう、学びましょうというのが主日の福音です。

その中でも大斎の日曜日のメッセージは復活祭の高みに昇っていくための一段一段という意味合いが強いです。準備週間のザクヘイの主日ではザクヘイのように樹によじ登ってでも神様に会いたいという気持ちを高め、税吏とファリセイの姿を見て自己満足を改め、放蕩息子のように悔い改めを行動に移し、「飢える者に食べさせ、渇く者に飲ませ、裸の者に着せ、旅人に宿を与え、病める者を訪ね・・・」と、愛を実践し、周りの人と和解します。
大齋に入り、正教勝利主日では天国に至る道をはっきりと確認します。聖書では天使の上り下りする梯子といわれ、またイコンという天国への窓が確認されます。グレゴリイパラマスの主日には、他の人への熱切な愛が神様を動かすことが説かれます。愛することが、愛の神の働きを分かち合うことである、こうしてハリスティアニンは神様と共に働くものであることを学びます。十字架叩拝の主日では、神の苦しみも分かち合うこと、自分の十字架を背負うことが教えられます。

さて、この階梯者イオアンの主日福音では、「口もきけず耳も聞こえなくする悪霊」が取り付いた子供と、その癒しを願う父親が出てきます。この父親はまずイイススの弟子たちに癒しを求めたのですが、彼らにはそれができませんでした。イイススはこれを「祈りと斎がなければできないのだ」と仰いました。イイススの弟子たちは、将来のために選ばれた者たちでしたが、この時にはいわば弟子という任務のために選ばれただけであって、天国への階段を一段一段上って霊の高みにあったわけではありませんでした。イイススは彼らに悪霊を追い出し病を癒す力を与えていたことが書かれていますが、それは弟子の任務に与えたのであって、彼らが霊的に優れているからではありませんでした。彼らは或いは、イイススの弟子という肩書きの力を自分自身の力と勘違いしていたのかもしれません。それは強い悪霊には通用しませんでした。
イイススは「祈りと斎がなければ、できない」と仰いました。ここで注意が必要ですが、祈りも齋も、ご利益を得るための対価ではありません。何時間祈ったら救われる、何日断食したら罪が除かれる、という考え方でこのイイススの言葉を理解しようとするのは間違っています。
祈りとは愛でありその対象に近づこうとすることです。注意しなければならないことは、自分で対象を作ってそこに神を近づけようとすることとは違うということです。例えば自分の考えた正義や理想が先だってしまって、それを神さまに実現させるために何事かを唱えたり業を為したりする、それは少なくともキリスト教の祈りではありません。確かにキリスト教徒もさまざまなことを神さまにお願いしますが、必ず「神さまのみ旨に適うならば」「しかし私ではなく神さまのお心の通りに」と付ける、それが基本にあるわけです。
そうすると、その近づいていきたい神さまに対して、自分があまりに無力で怠惰で卑しいと自覚せざるを得なくなる。神を愛し近づきたいと真摯に祈るならば必ず出てくる自分への貧しさの自覚、その遜りの心が齋の心です。この子の父親は「できますれば、私たちをあわれんでお助けください」という自分の願い(たとえ良いものであっても)が先にあってそれを叶えてくれてこそ神であるという自分中心の心から、「不信仰な私をお助けください」という、自分が神に近づこうとする祈りの心に変わったのです。そして「不信仰な」自分を、しんの貧しさを自覚したのです。神に至る階段の一段目を昇ったこの父親の願いを、イイススは叶えました。「神(しん)の貧しき者は幸いなり」というお言葉の通りに、子供から悪霊を追い出されました。

あとは、続けることです。階段は、その一段一段を同じ労力で登ることができます、それを続けたものはいつのまにか信じられないほど高いところに昇ることができます。
遥かな高みを仰ぎ見るだけで「私は信仰が足りないから」と言っているだけでは神様は助けてくれません。「私の不信仰を助けてください」と祈りはじめてください。 こと

父と子と聖神の名によりて、アミン。
(ステファン内田圭一)

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