マルコ福音書10章33節-45節 第47端(イエス、三度死と復活を予告する ヤコブとヨハネの願い)より

↓動画

彼の時イイスス、十二徒を召して、己に及ばんとする事を語げて曰えり、視(み)よ、我等イエルサリムに上る、人の子は司祭諸長及び學士等に付されん、彼等之を死に定め、之を異邦人に付し、之を辱(はづかし)め、之を鞭(むちう)ち、之を唾(つばき)し、之(これ)を殺さん、而(しこう)して彼第三日に復活せん。時にゼヴェデイの子イアコフ及びイオアン彼に就きて曰く、師よ、我等の求むる所、願わくは爾(なんぢ)我等の爲に之を行え。彼は之に謂(い)えり、我が爾等の爲に何を行わんことを欲するか。彼等曰えり、我等爾が光榮の中に於て、一人は爾の右に、一人は爾の左に坐せんことを賜え。イイスス彼等に謂えり、爾等求むる所を知らず。爾等我が飮む爵(さかづき)を飮むことを能(よく)するか、我が受くる洗を受くることを能するか。彼等曰えり、能す。イイスス彼等に謂えり、爾等は我が飮む爵を飮み、我が受くる洗を受けん。然れども我が右及び我が左に坐することは、我が與(あた)うべきに非ず、乃備えられたる者に與えられん。十門徒之を聞きて、イアコフ及びイオアンを熅(いきどお)れり。イイスス彼等を召して曰く、諸民の稱(しょう)して王侯と爲す者其民を主り、大人等其上に權を執るは、爾等の知る所なり、唯爾等の中には斯くある可からず、乃爾等の中に大ならんと欲する者は、爾等の役者と爲る可し、爾等の中に首(かしら)たらんと欲する者は、衆人の僕と爲るべし。蓋(けだし)人の子の來りしも、人を役わん爲に非ず、乃人に役われ、且己の生命を與えて、衆くの者の贖(あがない)を爲さん爲なり。


イアコフとイオアンの兄弟は最も早くからイイススにつき従ってきた弟子でした。イイススが起こしてきた数々の奇跡を見てきました。たった五つのパンで5千人もの人たちを満腹させた時も、生まれながら目が見えなかった人の目を開いた時も、すぐそばで見ていました。そこで彼等は、どこまでもイイススについていこうと決心していました。いまは不自由な旅を続けているけれども、必ずとてつもない幸せをイイススが与えてくれるに違いない、と信じていたからです。彼らにとって今の苦労は将来のために必要な投資でした。ですからイアコフとイオアンはある時、イイススにこう言ってみました。「イイスス様が世界の支配者となる時、私たちを一番の大臣にしてください」と。しかし、イイススはこう答えました。「あなたがたは自分が何を願っているのか、わかっていない」と。
わかっていないとは、どういうことでしょうか。イイススは、彼等の願いが良くないものだから「よろしい」と言わなかった、というだけのことではありません。彼等がわかっていないというのは、では大臣になってどうするのか、ということです。私たちも神様にいろいろなお願いをします。病気が良くなりますように、景気が良くなりますように。しかし、キリスト教徒であるということはその先を、ではその願いが叶ったらどうするのか、ということを、厳しいようですけれども考えなければならないのです。そこでイイススは弟子たちに言いました。「偉くなりたいと思う者は全ての人の僕となって仕える者となりなさい」。

これは、謙遜な態度をとっていればやがて周囲の人たちに認められて立派な人と言われるようになる、ということではありません。そのような処世術、この世の価値観ではなく、全ての人に仕えること、人のためを思い、人のために尽くすこと、すなわち全ての人を愛することこそが真に価値のあることであり偉大なことであるという、人間本来の価値観をイイススは提示したのです。王や大臣であるとか、権力や財産を持っているとか、それ自体には価値のないことです。小さなことであっても、それを世のため人のため、周囲のために用いようとすることこそ真に偉大で貴いことです。
イイススが重い皮膚病を患っていた人たちを癒したとき、そのなかで一人お礼を言う為に戻ってきた人だけに「あなたは救われた」と言ったことを思い出してください。病が癒されたということだけでは不十分なのです。重い病を患い人々との関係が疎遠になってしまっていた人が、感謝しあう、愛し合うという人間本来の在り方を回復した時、これを「救われた」というのです。 イイススは「神を愛し、隣人を愛しなさい、これが最も大切なことです」と教えました。これは、人が本当に幸せになるにはそれしかない、ということです。神さまは私たちにいろいろな物を与えてくださいますが、すべて愛する為の材料、手段なのです。それがわからなくなった時、人間は滅びていきます。いつまでたっても何を手に入れても幸せになることはできません。永遠の命、幾歳も、永遠の記憶、すべて、愛がなければ無意味です。

そこまででなくとも、私たちも毎日の暮らしの中で少しずつ自分を捨て、神さまのため隣人のためにできることを少しずつでもしていくということはあるし、できるのではないでしょうか。それが自分の十字架を背負ってハリストスについていくということではないでしょうか。
現代の教会にも、さまざまな事情を持った方々が居られます。信仰を家族に反対されている方、信仰を持っていることを家族にも打ち明けられず内緒にしている方。或いは信仰に疑問をもっているのに言い出せないで苦しんでいる方、ウチは教会なのだと本人の意思を無視して洗礼を受けさせられた悲しみを忘れられない方。行きたくないのに教会に行かせられている方、教会に行きたいのに行くことの許されない方。皆さんが自分の十字架を背負っておられます。そしてその痛みを、ハリストスは分かち合ってくれています。
ハリストスは、私たち人間の全てを分かち合ってくださった方です。十字架叩拝主日に読まれる使徒経、ヘブル書での「大いなる司祭長イイスス」の姿はこのことを語っています。彼は私たちの弱さをまとってくださった神、私たちと同じように試みに遭ったくださった神です、と。罪は犯さなかったけれども、それ以外の全ての人間性を私たちと共にし、私たちと共に苦しんでくださる神なのです。

「愛」というと、普通は恋人同士だとか、家族の仲睦まじい光景が浮かびます。しかし、このように愛を説いたイイススがこれから行おうとしていた事は何でしょうか? 彼等を憎む者たちに引き渡され、様々な恥辱を加えられて殺されてしまうことでした。慕い寄り添っていた人々は深く悲しみ、絶望しました。それも私たちがしばしば思い悩むことではありませんか? 私が良いことだと思ってしようとしているこのことは、身近な人を困らせないだろうか、もしや悲しませることにならないだろうかと。
隣人を愛し助けることは、常に安全とは限りません。他の子が虐められてるのを止めさせたいけれども、自分も虐められるかもしれないと躊躇してしまう。様子のおかしな人に声をかけたいと思うけれども、不審者かもしれないと見ないふりをしてしまう。
ハリストスを愛する者たちのなかには、家族を離れ遠い異国でさまざまな福祉活動を行っている方々さえおります。彼等の家族はそれを全く悲しんでいないでしょうか? まして現地の人達は必ずしも感謝していない、助ける者達を欺き、盗み、殺してしまう人たちすら居ます。長年アフガニスタンやパキスタンで医療活動や緑化事業など復興支援に取り組んできた中村哲医師が2019年に殺害されてしまったことは衝撃でした。それでも中村医師の志を受け継ぐ方たちは絶えません。
見知らぬ人を愛することは確かに難しい。しかし知っている人・自分を愛してくれる者だけ愛するならばどれほどの価値があるだろうかともイイススは問いかけています。

教会は、人が変われることを証しています。聖使徒パヴロスは迫害者から一変して使徒となり、ロシアのウラジミル大公は残忍な暴君から仁君に、そして聖なる亜使徒となりました。ザクヘイ、放蕩息子、そしてエジプトの聖マリヤは悔い改めによって人がどれほど変わることができるかを証します。克肖女マリヤは前半生を放蕩三昧に生きていましたが、悔い改め、荒野で47年間を祈りと齋のうちに過ごしました。
仲間を出し抜いてイイススにこの世の最高権力者の地位を願ったイアコフとイオアンの兄弟はどうなりましたか。イアコフは使徒の内で最初に神と人々への愛のためにこの世での生命を捨てた聖致命者となり、イオアンは、人々を深く憐れんでご自身を人々と同じ儚いものとされ「世の生命のために」付された神の愛を宣べ伝える福音記者となったのです。人は変わることができるのです。
大齋は、罪の奴隷であった者が真に解放され自由を得るための道程です。人間は欲望に支配される存在ではなく、自律し、自由意思によって自分以外の存在を欲得なく愛することができる、「神に似た存在」です。神の似姿としての本来の自分自身を取り戻すことが大齋のゴールです。

急には変われないでしょう。でも、身近な愛の輪を少しづつ広げていければ良いのです。骨髄移植のドナーになることは難しくても献血ならできるとか、散歩のついでにちょっと拾えるゴミを拾ってくるとか、自分では飼うことはできないけれど捨てられた動物を助けている団体に寄付をするとか、少しづつでもできれば良いと思います。人のために自分が何かするということが大切と思います。マザーテレサは「自分もインドで貧しい人々のために働きたい」と願った日本人女性に「あなたの国のあなたの周囲にも、あなたの助けを必要としている人々が必ず居る。ここでも日本でも同じこと。」と教えたそうです。
マザーテレサや中村医師のような大きな愛の業はできなくても、私たちが身近な愛する人のためになら自分の時間やお金や労力を差し出すことができる、それを、ほんの一歩近くの隣人に広げるだけでもけっこう世界は変わるのかもしれません。どんな人でも、友達の友達をさらに6回辿っていくと全世界のあらゆる人に辿りついてしまうと言われています。私一人が何をしようと、私一人が声を上げようと、世の中は変わらないと思い込まないでください。
この福音に先立って読まれる使徒経、ヘブル人への手紙において、パヴロスは「もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。」と述べます。ハリストスが降誕する前の世界では、人の罪は動物を生贄とし身代わりとすることで清められたということですが、その罪とは生きていくためにやむを得ず被らざるを得ないと思われていたような行為のことです。明らかな犯罪行為に対しては、相応の罰則が与えられたわけですから。例えば一匹の雄山羊がイスラエルの民の罪を負って荒野に追いやられたとか、年に一度大祭司が至聖所に入って動物の血を捧げたというようなことは、特定の犯罪に対してではなくてイスラエル共同体が存続していくためにやむを得ず行われていたような様々な事柄、日本的に言えば「業(ごう)」に対して行われていた贖罪の業でした。やむを得ない、生きていくためには仕方ないでしょう、当然のことでしょうというような業に、しかし幾分でも良心が咎めるという思いがあったから、そのような贖いが行われていたということです。現代の価値観から見ればそれも正しい事とは言われないでしょうが。
ただ、私たちハリスティアニンにとって、ハリストスの血が私たちの良心を清めた、と言われていることはとても重要なことです。というのは、私たちは最早、動物の犠牲によっては贖われないのです。イイススハリストスがご自身の血によって、永遠の贖いを全うしてしまったからです。何かしら物を捧げることによって業が贖われるのではなく、清められた良心によって悪しき業そのものが殺されて取り除かれなければならないということなのです。ハリストスは7の70倍赦せと教え、剣を執る者は剣によって滅びると教え、爾の敵を愛せよと教え、上着を望む者には下着も与えよと教え、すべて捨てて自分についてくるようにと教えました。この世の価値観から見れば、そのような極端な教えにどうして従えるでしょうかと言わざるを得ないでしょう。そう、それはこの世で上手に生きるための処世術ではありません。天地万物の創造主でありこの世を超える神、しかし「生ける神」に仕えるということです。神の前に立っているのだと覚悟することが求められています。
神に越えてこの世の権力者を恐れるのは、ハリスティアニンにとって愚かなことです。イイススハリストスがご自身の血によって清めてくださった私たちの良心に、神の前で聞き従いましょう。
世の中を変えられるのは偉い人たちであって、自分は大臣でもないし、大勢の人に影響を与えられるような有名人でもないから関係無いのだと思わないでほしいです。イイススがイヤコフやイオアンをたしなめたのはそういうことです。私たちは誰であれ、どのような立場であれ、イイススが飲んだ爵を飲むかどうか、イイススが受けた洗を受けるかどうかが問われているだけなのです。
自分の全財産や生命など顧みずにひたすら自分を犠牲にして献身せよ、ということではありません。私たち一人一人が、神の前において、一歩変われば良いのです。自分のために人を利用しようとする生き方ではなく、人を仕えさせようとする生き方ではなく、人に仕える生き方、人のために自分を与えようとする生き方に変える。
それはイイススが私たちのために十字架に釘うたれ、苦しみを受け葬られ、私たちのために三日目に復活された、その救いの業に与ること、共にすることです。私たちと共にしてくださるハリストスと、私たちも共にするということです。
大齋は終盤に入ります。齋、特に断食それ自体には大した意味はありません。この世での財産、権力、健康などと同じく、それは手段です。齋を通して私たちは神と共にあることを確認しているのです。神と共に祈り、神と共に苦しみ、神と共に悲しみ、神と共に働き、神と共に仕え、神と共に喜び、神と共に愛し、神と共に死に、神と共に復活する。
神は我等と共にす。

父と子と聖神の名によりて、アミン。
(ステファン内田圭一)

お問い合わせ

〒085-0832
北海道釧路市富士見2丁目1-35
宗教法人 釧路ハリストス正教会
TEL 0154-41-6857

E-mail:kushiro@orthodoxjp.com

管轄司祭 ステファン内田圭一