ルカ福音書6章14-21節 第17端(断食 宝は天に積め)より

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主曰(い)えり、若(も)し爾(なんぢ)等人に其過(あやまち)を免(ゆる)さば、爾等の天の父は爾等にも免さん、若し人に其過を免さずば、爾等の父も爾等に過を免さざらん。又爾等齋(ものいみ)する時、僞善者の如く憂(うれ)わしき容(さま)を爲す勿(なか)れ、蓋(けだし)彼等は、其齋の人に顯れん為に、顔色を損(そこな)う、我誠に爾等に語ぐ、彼等は已に其賞(むくい)を受く。爾齋する時、首(こうべ)に膏(あぶら)ぬり、面(おもて)を洗え、爾の齋の人に顯れずして、隱(ひそか)なる處(ところ)に在す爾の父に顯れん爲なり、然らば隱なるを鑒(かんが)みる爾の父は顯に爾に報いん。爾等の爲に財(たから)を地に積む勿れ、此處には蠹(しみ)と銹(さび)と損い、此處には盗(ぬすびと)穿(うが)ちて竊(ぬす)む。乃(すなわち)爾等の爲に財を天に積め、彼處には蠹も銹も損わず、彼處には盗穿ちて竊まず。蓋爾等の財の在る處には、爾等の心も在らん。


大齋直前の日曜日は、乾酪の主日(英語でCheese-fare Sunday)とも呼ばれます。これは乾酪(チーズ)を食すことができる最後の日という意味で、翌月曜日から乳製品・卵・酒・油等の摂取を避けるからです。なお、肉類はこの一週間前から避けています。 また、赦罪の主日、英語ではForgiveness Sundayとも呼ばれます。それは「若し爾等人に其過を免さば、爾等の天の父は爾等にも免さん、若し人に其過を免さずば、爾等の天の父も爾等に過を免さざらん・・・(マトフェイ福音書6章)」と読みあげられる主日福音と、主日晩課後に行なわれる赦し合いによって強調されます。

人と人が赦し合えないことの恐ろしさは、最初の人間アダムとエヴァの楽園追放に見ることができます。一般には彼らが楽園を追放されたのは禁断の木の実を食べたからであると説明されます。しかし教会の伝統は、それはきっかけではあったけれども、むしろアダムとエヴァが神様に赦しを乞わず、お互いを赦し合うことができなかったからであると教えています。
「アダムよ、あなたは何処にいるのか。」と神様が言い、アダムが自分の過失を直ちに告白せずに、「主よ、私はあなたの足音を聞いて、裸であることに気づいて身を隠しました。」と答えた時、神様は背を向けず、新たな答えの機会を与えるべく再び問いかけました。しかしアダムとエヴァはお互いに過失の擦り合いを始めてしまいます。神様の愛を信頼せず、助けを求められなかったこと、そして愛し合うべき伴侶と過失の擦り合いを始めた時に、神様は彼らを楽園から追放したのです。それは罰のための罰ではなく、助け合わなければ生きていけない環境で人が分かち合う存在として自分たちを取り戻すためでした。
神様はその後もさまざまな方法で人を立ち返らせようとし、ついに自らナザレのイイススとして人々の間に降りました。しかしイイススは裏切られ十字架にかけられます。裏切った弟子としてイスカリオトのイゥダが知られています。しかしイゥダだけではありません。イイススから「あなたの上に教会を建てる」と言われたペトルも「そんな人は知らない」とイイススを裏切っているのです。2人の違いは赦しを乞うたか否かだけです。ペトルはみっともない情けないと思いながらも他の弟子たちのところへ戻り、互いに赦し合いました。復活したイエスはペトルを赦し、教会の柱としました。一方、イゥダはその裏切りを独りで抱え込んだまま命を断ってしまいました。教会はイゥダの自決を「潔い態度・償い」とは決して言いません。どんなにみっともなくても心を開いて赦し合うこと・いかなる時も愛し合い助け合うことこそが人間の救いであると教え続けてきました。

大齋前の主日は、アダムの悲歎を歌う前晩課から始まります。「我を喚び還して、また樂園に入れ給え」というアダムの祈りを、私たちが共に祈る時、その悔い改めは“神と、神が造った全人と和解し一致する”聖体機密によって成就していきます。福音は前述の“赦し合い”と共に、「爾齋する時、首に膏ぬり、面を洗え。」と謙遜を伴うように促します。齋における祈祷の増加と食をはじめとする節制は、決して個人的修行のように捉えてはなりません。自分の為だけでなく隣人・共同体全体の為に祈ること・祈り合うことこそ、人が取り戻すべき本来の姿だということです。節制は共同体のために自分の欲求を制限するという助け合いの意味も持っています。互いに愛し合い全てを分ち合う人々にとって、齋はこれ見よがしに誇るようなものではあり得ず、人々への愛の喜びの内に“当然のように”行なわれる遜りの業となります。
教会に関わることはいかなることであっても「神の家属(族)」(エフェス書2章19節)という観点から見るのです。親は子に何か買ってやる為に自分の欲しい物を諦めなければならない時、これを怨んだりしないでしょう。むしろ子の喜びを自分のこととして喜びます。子は親・兄弟を助ける為に働く時、「ありがとう」という言葉以上の物を求めないでしょう。そのような、共に生活し当然のように愛し合い助け合う家族の関係を、全ての人々、まず同胞・幼い者、そして貧しい者・虐げられる者・罪人・旅行者、さらによそ者・異教人・敵対する者にも広げていくこと、ハリストスが教えたのはそれだけのことだったのではないでしょうか。ですから、私たちは齋を誇りません。

赦し合い・謙遜に対し、驕り高ぶりは全ての罪の源であると言います。アダムとエヴァは神様に拠って在る自分たちであることを脇に置き、自分たちの欲求、食べてはいけないと言われた果実を食べることを優先しました。蛇に唆されたとは言え、「神様と同じになりたい」と分を超えて妬みました。
私たちも、全人類が助け合って生きるべき兄弟姉妹であることを忘れ、全世界が神様から全ての人々に預けられた賜物であることを忘れることから、嫉妬・侮り・我儘が溢れ出し、すぐに恨み言・罵りの言葉を吐き、隣人を傷つけても気付かず、兄弟の苦しみ悲しみに無関心になります。神は「人がひとりで居るのは良くない」と仰いました。ある人が、どんなに道徳的に正しい生活を送り、誰にも迷惑をかけなかったとしても、それは自分のものであって他の人には関係ないと信じ、他の人の貧困や、孤独や、過ち、罪を、私には関係ないと信じているならば、その人は神の救いとほど遠いところに居ます。
教会の教えは、あなたの物をなにもかも差し出せと言っているのではありません。むしろ愛が無ければたとえ命を投げ出そうとも意味がない、と言われている通りです。先週の福音説教では「神は、私たちが他の人の喜びを喜んでいるか、他の人の悲しみを悲しんでいるかだけを見ておられる」と説きました。だから私たちは他の人の罪も、悔い改めようとするのです。
「あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」とイイススは教えています。「あなたがた」なのです。正教会では「全ての人は生まれながらにしてアダム以来の罪を受け継いでいる」というように原罪を強調することはしてきませんでした。しかし「全ての人は三位一体の神の似姿として創造された故に全ての人は互いを互いのうちに分かち合っているので、他の誰が犯した罪にも何らかの関りと責任を持っている」というように、「全ての人が一つの人間性を分かち合っている」ことは常に説かれてきました。だからこそ、神の子は人となって人の性をお取りになり、私たちとも一つの人間性を分かち合ってくださり、十字架の死から復活して全ての人に復活の道を拓いてくださったのです。ですから正教会は一貫して「誰も、ひとりでは救われない」のだと、教えてきたのです。

(以下は、2022年2月時点での状況をもとに話していますが、その後も意図するところは変わりません)
ロシアがウクライナに軍事侵攻して一週間が過ぎました。私たち日本正教会と同じくモスクワ総主教庁のもとにあるウクライナ正教会は、ロシア軍の侵略行為をはっきりと非難し、自分たちがウクライナ政府とウクライナを守る軍隊、そして全てのウクライナ国民の味方であることをはっきりと表明しています。そして、モスクワ総主教庁のモスクワ総主教庁のもとにあるか、そうでないかに関わりなく、亡くなった兵士と一般市民のために祈り、困窮するすべての人たちに食料や必要物資を提供し、精神的ケアに努めておられます。
 そしてモスクワ総主教キリル聖下に対しては、ウクライナでの流血を止めるためにロシア当局に強く働きかけてくださいと訴えておられます。また、ゼレンスキー大統領とプーチン大統領に、兄弟民族間の武力対立を終わらせ、停戦交渉を進めるようお願いしておられます。私はオヌフリイ府主教座下のお働きに寄り添いたいと思います。
 双方が憎悪を募らせていく間にあって、和平のために働くということは大変に困難なことです。「橋は両方から踏まれる」と言われます。しかし、ウクライナとロシアの両方のルーツを持つ人々はとても多いのです。ウクライナが独立国家であることは確かなことですが、歴史的に同じルーツを持ち、常に交流し、言語も類似し、共通の文化も多く、同じ正教を奉じていることも確かです。ウクライナとロシアのハーフだという或る方は動画を公開し「家族の中で戦争が起きている感じ」だと話していました。外から対立を煽るのではなく、橋を架けることがウクライナとロシアのために本当に必要なことではないでしょうか。イイススが教えたのは断罪ではなく和解であったはずと私は信じています。


主日聖体礼儀後、「赦罪の晩課」が行われいよいよ大齋に入ります。この祈祷の最後に全ての参祷者がお互いに跪き抱き合って赦し合う美しい習慣があります。ただ、今年も新型コロナウイルス感染症の恐れがありますから、参祷できない方も多いと思います。しかし私たち正教の民が、離れていても常にハリストスと共に、繋がっていることを信じ、共に「怠惰と愁悶と矜誇と空談の情」を離れ「貞操と謙遜と忍耐と愛の情」を保つようにし、復活の生命に向って神の家属として共に歩んでいく為に、互いに赦し合いましょう。

父と子と聖神の名によりて、アミン。
(ステファン内田圭一)

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