「種まきの譬え」と「神の国の奥義」
ルカ福音書8章5~15節は「種まきの譬え」と呼ばれる箇所で、マトフェイ13章、マルコ4章にも同じやりとりがあります。このような話です。
大勢の人々の前で、イイススは譬えで話しをされた。「種を播く人はあちこちに種を播いたが、道端や荒地といった悪い土地に落ちた種は育たなかった。しかし良い土地に落ちた種はよく育って百倍の実を結んだ。」後になって弟子たちはこの譬えの意味を質問した。 (イイススは)そこで言われた、あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである(ルカによる福音書8章10節)。 それから「この譬えはこういう意味である。種は神の言葉である・・・良い地に落ちたのは、言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。」と教えた。
そこでまず私たちは、神の言葉である「神と隣人を心から愛しなさい」「父母を敬いなさい」「飢える者に食べさせ、渇く者に飲ませ、震える者に衣服を着せてやり、病気の者孤独な者を訪ねて励ましなさい」「謙遜である者はまことに幸いである」などの教えをしっかりと聞き、良い心で守らなければなりません。 そして、耐え忍ぶことが必用であるとイイススは教えています。隣人は必ずしも私たちの親切を感謝して受け入れるとは限りません。親子兄弟と言えど、何かの拍子にできたわだかまりがなかなか解けず、素直になれないことがあります。プライドの高い者、孤独な者の心は、からまった糸を解くように少しずつほぐしていくしかないこともあります。毎日田畑を世話するように神の教えを倦まず弛まず実行し続ける者は、多くの収穫を得るでしょう。
そして、この福音は、それよりももう一段階大切なことがあると教えています。イイススは「神の国の奥義」を知ることのできない人たちの為にこの譬え話をしたのだ、と仰ったのです。
この「神の国の奥義(ギリシャ語原典ではΜυστηρια τη? Βασιλεια? του Θεου)」とは、機密のなかの機密(Το Μυστηριο των Μυστηριων)、すなわち領聖・聖体機密のことです。「奥義」と「機密」は同じΜυστηριονという言葉を(おそらく文脈によって)訳しわけただけです。また、「知る( γιγνωσκω )」という言葉は「人(アダム)はその妻エヴァを知った(創世記4章)」のように、頭で理解するという以上の意味を持っています。
私たちは宗教を"ものの考え方・ある種の哲学"のように捉えがちなので、その奥義というと"一部の頭の良い人だけが理解することのできる特別な教え"や"厳しい修行の末に一部の人だけが達することのできる精神的境地"なのではないかと考えます。しかし、キリスト教の奥義とは本来(すなわち、キリスト教の本家本元である正教会では)、"主・神・救世主・イイススハリストスその方となったパンとブドウ酒(ご聖体)を皆で分かち合って食べること"で、それ以上のことは無いのです。領聖こそが"多くの預言者や義人たちが望んで得られなかったもの(マトフェイ福音書13章17節)"なのです。ハリストス以前にも正義の人は居り、慈愛の人も居ました。死者を復活させた預言者(イリヤやエリセイ)さえ居たではありませんか! ハリストスによって得られるそれらの良い事は、ハリストスその方との交わりそのものに比べればあくまでも余禄なのです。
ご聖体は神そのものです。私たちはパンとブドウ酒を"神と見做す・まるで神そのものであるかのように接する"のではありません。"聖書に書かれたイイススの教えを思い起こす"ためにパンとブドウ酒を食べて記念とするのではありません。パンとブドウ酒は(人間の感覚では測り得ない仕方・形で)神そのものとなるのです。聖体礼儀に参祷し領聖することは正真正銘「神との交わり」です。それは譬えではなく現実のことです。「何を馬鹿な!」と思うのは現代人の私たちだけではなく、「ユダヤ人には躓きとされ、ギリシャ人には愚かとされた(コリント前書1章)」と聖使徒パヴロスも述べている通りです。しかしこの世で最高の力・富・知恵を持った大ローマ国が選んだのもこの理解しがたい!"機密のなかの機密"を奉じる正教会であり、これが東欧・ロシアを経て日本に伝わり、私たちにも知らされたのです。
聖使徒行実などに見られるように、聖体礼儀は当初は富者も貧者もそれぞれに応じてパンとブドウ酒、いっさいの物を持ち寄り、皆で分かち合ったものです。現代のように物の豊かな時に、パンもブドウ酒も全て教会で用意されている聖体礼儀では"教会(εκκλησ?α)として集まり、神と人々との協働(λειτουργ?α)として感謝の祭(ευχαριστ?α)をささげ、皆で領聖(κοινων?α)する"こと自体が素晴らしいことで、信仰の目的というよりは"生きることの目的そのもの"なのだと言っても、なかなか得心しないかもしれません。 また、最初の人アダムとエヴァ以来、人間は"それがどのように自分に返ってくるか"を先に考えずにはいられないようになっているので、今さら"神と人との交わりそのもの"が目的であると言われても、人は何かピンとこない、何か物足りないのです。そして「罪(αμαρτια)=的外れ」は本来、この大目的の取り違えのことを指すのです。
(ステファン内田圭一)