第六章 教勢の復興
第1節 敗戦による信仰の痛手

 昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏をした。その敗戦の虚脱感の中にも、戦中からの食糧の欠配・削減に、国民は明日の家族の食糧を求めなければならず、物資不足は当然インフレを招き、特に都会に住む人々にとって、衣類やその他の品物と食料との物々交換までせざるを得なかった。釧路も例外ではなかったが、さらに戦時の空襲による被害は釧路市民にとって大きな負担になったことであろう。
 釧路の教会も昭和18年(19年?)、マルク下斗米師が釧路を離れてからは、建物あって教会の無い状態で、特に敗戦による精神の価値観が変わろうとしている時、群羊を牧する神品は不在であり、この時期はまさに釧路教会の一大空白期間と言っても過言ではなく、信仰の沈潜した時であったのではなかろうか。このような時に当たって、戦時中、教会を守り抜き、後の執事長となった故デミトリイ勝永幸三郎兄は、昭和16年の戦前最後の公会議事録が載った『正教時報』、昭和21年4月の臨時公会議事録、同年7月の公会議事録等を大切に保管しており、兄としても道東の釧路にあって本会の動きに対して憂慮しながら、人知れず教会の復興に心を痛めておられたことであろう。
 敗戦によって再び強制移住の憂き目を見たのは、色丹島の聖三者教会の千島アイヌの後裔であろう。彼らのほとんどは和人と融合し、占守島より色丹に強制移住させられて60年を経過し、日本正教会の一肢体となっていた。
 『色丹島歴史年表』には、昭和20年9月1日、ソ連兵600名斜古丹に上陸、同年9月中頃、島民は集団脱走を計画し、太平洋岸イネモシリ・ノトロ・チボイ・トイロの島民の一部を除いて脱島に成功したとある。ソフロニイ寿山仁作兄も11月に脱島に成功し、一族は弟子屈町に引き揚げたが、兄はその後、武佐教会を慕って教会前に家を建て武佐に移り住んでいる。島民、信者の多くは昭和22年、ソ連船で樺太に送られ、幾多の辛酸を経て函館経由で日本に送還されている。
 信者の多くは、武佐・弟子屈・根室・羅臼に引き揚げているが、昭和6、7年に、武佐教会のマルク菊池伝教者が斜古丹聖三者教会におられたので、師を頼って色丹に最も近いそれらの地に引き揚げて来たのではなかろうか。内田神父の作った昭和4年の信者名簿によると、色丹のソヒヤ美島、アクリピナ寿山親子が標津市街の石鹸製造会社に籍を置いている。これらの事柄からしても、色丹の聖三者教会と武佐教会の結び付きの一端が窺われる。なお、内田神父が当時書き遺した色丹正教徒の名簿に、後世、どなたが加筆したのか彼らの引き揚げ先が追記されている。
 前に戻るが、昭和21年4月に戦後初めて日本正教会の臨時公会が開かれた。これより先、3月に日本正教会総務局(長司祭鵜澤局長)と主教ニコライ小野帰一師の名で、モスクワの総主教アレクセイ聖下(1945年総主教に選立された)宛てに母教会との連携と、日本にその首長者の派遣を願い、ロシア正教会は2人の主教を日本に派遣したが、ウラジオストクまで来て連合軍最高司令部の査証が下りなかった。すでに米ソの冷戦が始まっていたのである。
 この公会で総務局より次の議案が提出された。関係深い2議案を挙げる。
 第一議案 日本正教会憲法改正の件
 第二議案 所属パトリアルヒヤ(総主教)承認の件
 第二議案(第一議案は省略する)については、モスクワのパトリアルヒヤを承認するとともに、教会再建のために連合軍最高司令部の斡旋により、教会に関して米国正教会の指導と援助を仰ぎ、かつ米国より露国人主教1名派遣方を依頼することを満場一致で可決した。昭和15年の公会でモスクワ教権離脱の声明に、万歳を連呼したのは昨日のことのようであり、朝令暮改の感無きにしもあらずと言うべきであるが、当時は軍閥に抑圧された時代であり、今日は連合軍(アメリカ)の占領下である。当時、日本国民の多くは世界の情勢から閉ざされており、我正教会の以上の決議は、常識を逸したとは言えないものであろう。
 会議半ばに、小野主教は軍閥及び特高により擁立されたとして非難が相次ぎ、小野主教は「休養ということにして金成教会に引退する」ことになった。
昭和21年の通常公会は鵜澤総務局長名で招集された。これは、4月の臨時公会において日本正教会憲法改正で「主教ハ公会ノ招集、其開会及閉会ヲ祝福ス」、「総務局ハ公会ヲ招集し且ツ…」を挿入したしたためで、小野主教引退に伴うものである。この公会で「主教招聘」に端を発して大いに揉め、4月の臨時公会の議決を白紙に戻す等の発議があって収拾がつかず、総務局に一任した。翌日、総務局より次の如き条項が提出された。「一 米国正教会よりの回答を待ち、改めて主教招聘の件は協議決定すること(他の件は省略する)」。これについてはまさに可決と見えたが、緊急動議があり以下のように改められた。「公会ニ於テ選定セラレタル司祭並ニ輔祭ノ候補者叙聖ノタメ『米国正教会ヨリ』主教招聘ニ付連合軍司令部ニ斡旋方ヲ懇請スルコト」としたが、なおも揉めて文中の『 』の字句を削り、その含みを持たせて決議している。
 当時、日本は連合軍といっても、アメリカが多大の血を犠牲にして日本を無条件降伏させたものであり、ソビエトは漁夫の利を占めたのみで日本における発言権はほとんどなく、まして自由主義と共産主義を標榜するアメリカとソビエトはすでに冷戦状態にあった。日本は米国の占領下にあり、日本国の命運はマッカーサー元帥の手中にあって、何事も司令部の許可なくしてはできない国情であった。公会決議でモスクワのパトリアルヒヤ(総主教)を承認し、主教の招請をアメリカに求めたことは、今にして思えば不可思議なことと思えるが、当時、敗戦の虚脱感にありながらも、なお我が正教会の針路を求めて止まなかった我が先達に敬意と謝意を表するものである。
 昭和21年6月25日発行の日本ハリストス正教会総務局報に「主教、司祭候補者推薦」として次のような文が載っている。
 「4月の臨時公会で我が教会の主教及び司祭に聖叙せらるべき候補者を推薦することに決定しているが(中略)、いずれ今度の公会までに推薦せられた人々に対しては、公会において詮衡内至審査委員を挙げ、慎重審査して候補者を確定し、近く派遣せらるべき主教の手許に提出し、そのうえで夫夫叙聖の手続きが採られるであろう(後略)」。以上の文面からして、当時、日本正教会の自治独立を考えていたのであろうか。7月の公会で主教候補が選ばれたが、それ以上の進展は見なかった。昭和45年、日本はモスクワのパトリアルヒヤ(総主教)を承認し、総主教アレクセイ聖下の祝福の下に聖自治教会となり得たが、昭和21年度公会の決定は大きな回り道であったであろうか。
 かくして、昭和22年1月7日、アメリカからヴェニアミン主教(在米ロシア教会。アメリカにはこの他にモスクワ総主教管区と呼ばれるロシア正教会等があった)が来日し、同師は日本正教会に推戴された。日本正教会はその後、アメリカ正教会より物心両面において多大の援助を受けて立ち直っていく。
 これより先の1月6日、突然マ司令部より正教会代表者3名の出頭を命じられた。従来はもっぱら民間情報部宗教課に出頭していたが、当日はまったく初めてマ司令部本部のコーレンス大佐の係りで、某中佐のほか、宗教課長ヴァン氏並びにケラー師立会いの下に、マ司令部より次の申し渡しがあった。
「先の日本正教会よりの請願による米国より主教を派遣する件はこれを許可する。将来、日本教会が紛糾を招来せぬために何方からによらず第三者からの干渉圧迫を無からしむるようにしたい。(中略)マ司令部は絶対に信教の自由を尊重、保護するが故に日本正教会信徒多数の意志による自由なる発展を希望する。その意味において許さるる範囲の援助をなすであろう云々」。これは当時の日本正教会にとってまたとないお墨付きであり、すばらしい贈り物であったことであろう。
 しかし、米ソの冷戦は、ソビエト・モスクワのアレクセイ総主教と在米のロシア正教会のフェオフィル府主教(ヴェニアミン主教を日本に派遣した)の不和となり、在米ロシア教会はこの後、モスクワ教権の隷属より脱し、日本正教会も永く共産主義下にあるロシア正教会と袂を分かつことになる。
 すなわち、昭和22年11月、サンフランシスコにおいて開かれた在米ロシア正教会の主教会議で決定された次の2件を見ても、その間の事情がわかる。
一 母教会ロシア正教会との連絡を断ち切ることはしないが、従来ソ連正教会と米国正教会との合併問題に関する限り一切の交渉を謝絶する。
一 ヴェニアミン大主教をして日本正教会を管轄せしめ且将来ロシア母教会が、正規の状態に復帰するまで米国正教会は日本正教会を後見する。
 一方、公会において休職に追い込まれた主教ニコライ小野師は、一時、金成教会にあったが、その後もモスクワ総主教との関係を続けた。道東の正教徒にとっては、日本正教会が独立を獲得するまで当時の混乱が尾を引き、数年後には不幸な教会の分裂となっていく。昭和21年の通常公会で、札幌教会より次のような建議が出された。
   建 議 案
一 北海道地方教区整備の件
 現在、北海道地方には札幌教会に猪狩神父1名のみで諸奉事に際して釧路、根室までも出張を要請される現状である。至急教区を旧の如く整備願いたい。
 この公会で猪狩司祭による道東の教勢は、信徒現在員、釧路・189名、帯広・63名、北見・61名、斜里・96名、標津・76名、根室・26名、色丹・86名で、受洗者、永眠者とも記入されていないが、実勢とは相違しているようである。教区整備の件にしても、暗に釧路教区の再建を希望している。公会においても神品会議に回付して各司祭方に善処を委任しているが、神品の不足、特に釧路教会信徒の信仰の疲弊、敗戦の虚脱感が信徒の結束に至らなかったのであろう。札幌教会の建議は当分進展しなかった。


  

第2節 戦後初めての主教巡回

 昭和22年、アメリカからヴェニアミン主教が日本に着任し、同年5月に大主教に昇叙されている。大主教は同年、本会経営のニコライ学院の英語教師モイセイ馬場脩氏、猪狩神父を伴い、6月26日に釧路を訪れている。昭和22年6月27日(金曜)付の『北海道新聞』に写真入りの「ニコライ神父来釧」の見出しで、「米国ニコライチャーチ(グレック・カソリック)ベンヂャミン神父は布教伝道のため26日来釧、午後1時から富士見聖心会礼拝堂で市内信徒に布教講話を行った」とある。この時の感激をアンナ岡田ひで姉(旧釧路正教会執事・故岡田繁兄夫人、現在東京在住)は次のように述べている。
 「ヴェニアミン大主教の御来臨を戴き、久しく閉ざされていた釧路正教会の扉が開かれ、我々信者にとっては望外の喜びであり、信仰の火が灯され、敬虔な祈りを捧げたその時の感激は今もって深く胸に刻まれている」。札幌から猪狩神父も御出でになり、釧路正教会にとっては昭和7年、内田神父の時代に府主教セルギイ座下が来釧して以来の慶事である。大主教は27日夜、多数信徒の見送りを受けて札幌に向かわれた。
 当時の国鉄は、函館―釧路間に直行列車はなく、釧路―札幌間にも急行列車のない時代であり、釧路―札幌間は普通列車で17時間以上を要したはずである。大主教の北海道巡教の旅は大変なことであったに違いない。
 当時の記録がないのははなはだ残念なことであるが、幸い釧路教会前で撮った貴重な写真がある。ただし右側の4分の1ほどの信徒が写っていない。写真には、遠く武佐から長谷与治平、寿山仁作、工藤ハル(ヒリップ熊之助夫人)、テクサ森谷(フェアフォン勇夫人)、岩崎巌(現釧路教会信徒)、兄の祖母エレナせき、釧路ではベロノコフ夫人、オリガ三井田、アナスタシヤ玉真、マリナ勝永(デミトリイ勝永夫人)、リュボウ西田、アガヒヤ嵯峨、アンナ岡田の諸兄姉の姿が載っている。背の高い外人は、当時ベロノコフ夫人の店の手伝いをしていたコレジャトコフ・スタルヒン(野球で有名なスタルヒンの父君)である。写真に出ていない人では、勝永親子、金田三郎、ニーナ坂本、武佐の矢本定雄の諸兄姉ではなかろうか。帯広の立花家にヴェニアミン大主教の感謝状と小十字架が大事に保管されているので、アニキタ立花宗三郎兄も帯広から同行されたのではないかと思われる。写真を見ると、大主教は頭に宝冠を戴き、神々しい祭服を纏っていなさるので、大主教御臨席のもとで猪狩神父の聖体礼儀が執行なされたのではなかろうか。
 イサアク勝永兄(現釧路教会執事長の兄)の回想によると、その後、旧司祭館の畳敷きの広間に皆が集まり、オリガ三井田姉の手作りの料理と、ベロノコフ夫人手製のロシア風サンドイッチを馳走になり、どんな酒であったか忘れたが、杯の大小に関係なく一回で飲み干す乾杯を「誰々の為に」と、座下の音頭で何回も繰り返されたことなど、記憶を蘇らして語ってくれた。
 釧路では信徒の消息も未だ十分把握できず、まして教会を立て直す状態ではなかったが、座下の来臨は釧路教会の夜明けであり、後年、この出席者らによって釧路教会は再建される。

 
  


第3節 斜里・釧路正教会の専任司祭派遣の請願

 昭和23年7月の公会に、斜里教会イオシフ佐藤勘右エ門ほか2名より次のような請願が出されている。
   建 議 案(第一号は省略する)
第二号 我等東部北海道信徒の為教役者一名御派遣の件
 これに対して山口宗務局長は、「ヴェニアミン大主教も道東に司祭の必要を痛感されており、宗務局より斜里教会その他に向かって経済事情の報告を求めているが返事がない。宗務局としては、現地に適当な自給伝道者を求めて牧して行きたいと考えている」と解答している。当時の神品の不足は言うまでもないが、神父に対する供給、教会の維持費の負担はわずかな信徒では不可能なことであったのであろう。
 札幌正教会の代議員もこれに付随して、猪狩神父の管轄区域の広大なこと、釧路まで20時間という現状で、御老体の神父には御無理な点が多く、心痛致していると述べている。
 前年、ヴェニアミン大主教を迎えた釧路正教会も昭和24年当初、専任司祭派遣の請願を本会に出しているが、3月15、16日に開かれた宗務局総会で、鵜澤局長より「釧路教区の専任司祭を公会まで人選するように」との発言があったにもかかわらず、同年7月の公会には請願、建議にも採択されていない。
 昭和23年8月、宗務局より各教会教役者、信徒宛てに「セルギイ府主教の建碑献金募集」があった。釧路市・勝永幸三郎名で500円、北見の向井藤太郎名で300円の献金が同24年3月号の『正教時報』に載っている。その他、管内の諸兄も献金されていることと思うが、詳細については残念ながら不明である。とまれ、釧路正教会の再建に勝永兄始め諸兄姉らがまさに起ち上がろうとしていた時であろう。

 
  

第4節 札幌正教会の友情

 この頃よりアナスタシヤ玉真、マリナ勝永、オリガ三井田、アンナ岡田、ニーナ坂本、アガヒヤ嵯峨、リュボウ西田らの諸姉が旧司祭館(当時末信徒の大工某に建物管理のため一部使用させていた)に時々集まるようになった。彼女らは教会の再建等を語り、聖歌の練習をしていたのであろうか、指揮者のいない聖歌の合唱はたどたどしいものであったであろう。幸い、玉真姉の令妹フェオドラ窪田千代子姉が札幌教会で聖歌隊のメンバーの一員であった関係もあり、玉真姉、勝永兄の尽力で昭和24年5月8日を釧路教会の復活大祭として札幌から猪狩神父が、厨川執事長(後の函館正教会神父)を指揮者として聖歌隊11名を伴って来釧され、ここに盛大な復活祭が行われた。当時、フェオドラ窪田姉は札幌教会の執事を務めており、姉によるとその時に執事会を開いて、釧路での復活大祭執行を決定されたようである。武佐や遠く新得、帯広からも信徒が駆け付け、猪狩神父の御祈祷、混声四部の聖歌が渾然一体となり荘厳、美麗な聖体礼儀であり、その感激一入深いものがあったと古老の信徒が述懐している。またこの感激が3年後の「司祭常任」につながっていく。
 この時5月5日、武佐の篤信な信徒であったフェオファン森谷勇兄が永眠された。葬儀は5月9日に行われている。メトリカには葬儀執行者は猪狩新造となっているので、師は釧路の復活祭が終わるや否や、武佐の森谷家に駆け付けたのであろう。師の道東信徒に対する慈愛に深く感謝するものである。
 さて、聖体礼儀終了後、懇親会が開かれ、その席で札幌の詠隊の方が「札幌教会では戦時中に聖鐘を供出したので、現在銀紙を張って鐘を作ろうとしている」と言われた。勝永兄がこれを聞いて「釧路教会には神父がいないので教会の聖鐘をぜひ使ってほしい」と申し出て、札幌に聖鐘をお貸しした。釧路教会の聖鐘が北海道の首都札幌の大空に鳴り響いていたことは、札幌と釧路の信徒間の心の絆が正教によって固く結ばれた証しであろう。その後、聖鐘は出原神父着任の27年に返却された。札幌聖歌隊はこの後、出原神父が昭和27年に釧路へ着任するまで2回来釧されている。
 玉真姉は札幌出身で、当時の市立釧路病院長玉真俊雄氏夫人である。猪狩神父及び聖歌隊の来釧には自宅を解放し、接待等、諸事万端に気を配り、釧路の信者と札幌の方々との交流に務められた。現釧路教会信徒マトロナ山本姉もその接待を手伝われたと述懐している。当時、現札幌正教会の有原次良長司祭の若き日のお姿も聖歌隊の中に見受けられた。
 昭和24年の秋、サワ佐々木勝男兄(現佐々木和雄兄の尊父)が一家を挙げて東京より引き揚げて旧司祭館に居住した。兄は一時、神学校に籍を置いたこともあり、教会で代祷を務めるようになる。釧路教会再建の気運がさらに熟してきた。ただ、釧路教会の教勢を公会議事録に見る限り、昭和25年7月までは(道東は必然的に札幌正教会猪狩神父の臨時管轄となっている)、釧路正教会信徒数は5戸、9名と記録されている。ヴェニアミン大主教来釧時より、釧路正教会についてその復興状態を述べてきたが、当然これは誤記である。昭和26年の公会議事録に初めて、釧路の信徒戸数17戸、信徒数32名、受洗者4名、領聖者10名と、猪狩神父によって正確に報告されている。これは釧路では戦後初めての受洗者である。この年、札幌から猪狩神父が来釧し、釧路教会で盛大なる復活大祭が行われている。この時の受洗者は、釧路市春採町に住むイリナ鈴木姉(ワッシアン鈴木兄の後裔)の次女ユリア鈴木愛子、長男マカリイ輝雄、三女ぺラギヤ和子、弟子屈町在住のペトル大橋兄の長女スザンナ裕子の諸兄姉であり、札幌正教会のメトリカに記録されている。武佐、斜里の受洗者、領聖者は未だ無い。この年の道東の教勢を公会議事録で見ると、釧路は前記の通りであり、武佐は17戸・93名、斜里は7戸・23名、帯広は戦後初めて6戸・21名と報告されているが、北見については未だ記載されていない。


  

第5節 2代目上武佐正教会に成聖

一 武佐正教会の美挙

 昭和24年8月15日の『正教時報』に次のような記事が載っている。
 「北海道釧路教区武佐教会信徒矢本定雄兄は、本会聖堂の木柵を献納せられ、去る7月末日、北海道よりこの木柵が到着したので近日中に出来上がると思います。遠隔の地に住みながらも本会の隆盛を念願し、こうまで御努力・御貢献された矢本兄及び武佐教会の信徒一同が、手ずから刻み、建てるばかりにして送って下さり、重ね重ねの芳志ひたすら感謝に堪えません。大主教(ヴェニアミン)始め在京宗務局員及び信徒一同深くその厚意に感謝しております」とある。
 当時、ポルフィーリイ矢本定雄兄は武佐で木材業を営み、大阪・名古屋方面へ出張したおり、東京の本会へ参祷し、戦時中に国に鉄柵を供出して柵の無いニコライ堂を目の当たりに見て、荒涼を感じたのであろう。帰村するや山から木材を切り出し、信者一同で建てるばかりに切り込んで本会に送ったものである。色丹から引き揚げたソフロニイ寿山兄も汗を流して協力奉仕した一人であった。

二 下斗米昌教伝教者

 武佐の2代目教会を語る時、忘れてはならぬ方がマルク下斗米師昌教師である。
師は東北の三戸出身で、相馬大作の血縁につながる後裔と言われ、明治30年代に活躍された札幌正教会の伝教者モイセイ下斗米師の御子息である。昭和8年10月に啓蒙学園(ニコライ主教によって開校された神学校は大正8年に閉鎖され、その後、セルギイ府主教、アントニー日比修道司祭による神品養成のための学園)を卒業、有川教会(現上磯)、伊豆の修善寺教会を経て昭和16年に釧路教会、その後、三戸から本会に転じ、昭和21年に再び有川教会に発令となったが、本会の都合により本会附伝教者となり、在京青年会の指導と、当時、関心が高まりつつあった正教への求道者のための伝道に従事し、昭和23年に上磯教会へ転任されている。
武佐教会の古老の記憶によると、師は昭和25年頃の春、上磯の信徒一人(現函館正教会のイオナ吉川由夫兄)を連れて武佐に農耕馬購入のため来られ、工藤剛兄の世話で馬一頭を買ってお帰りになった。その時、工藤兄らと昔の思い出話に花を咲かせ、無牧の武佐に来村を請われたのではなかろうか。事実25年の秋頃、武佐に自給伝教者として着任し、各信徒の家に1ケ月、2ケ月と寄宿して遠く斜里方面まで伝道に赴き、説教が上手な方で、子どもたちには子ども向きの話をされ、また聖歌を習った信徒もおり、現在、武佐教会の古老にはっきりと記憶されている。メトリカにも昭和25年11月、某信徒に攝膏洗礼を授けている(翌年ニコライ小野主教座下傳膏機密を授ける)。なお、昭和26年の公会議事録教役者住所には、マルク下斗米師は北海道武佐教会となっている。翌年は教役者住所に師の名は無い。
 師はその後、27年に函館在住の教え子イオナ吉川兄を訪ね、28年に兄とともに上磯に移っている。昭和28年秋頃、吉川兄に別れを告げ、マルコ佐藤善作兄の住む日高の清畠に巡教、某郵便局長の家に寄宿し、昭和30年12月29日、その地で永眠された。岩手県三戸市の龍岩寺に葬られている。墓は本堂の左側にあり、十字架も聖名なく本名だけ刻まれている。
 吉川兄が別れにあたって、せめて行先だけでも知らせてほしいと願ったが、師は「人間死ねば肉体は草の根、木の根を肥し、魂は天に昇る。お前は地に在って天を見上げれば何時でも私を見ることができる。心配しないでほしい。一人でも日本正教会のために信者を増やしたい」と言われ、飄々として去られたそうである。

三 2代目上武佐正教会会堂の建立

 昭和7年、釧路教会の成聖式を目の当たりに見たアベルキイ長屋与治平兄は、将来の武佐教会再建のため、昭和10年に雌牛一頭を教会牛として献じた。この頃、特に昭和9年は東北地方は冷害大凶作で、北海道も大凶作となり、昭和11年には釧根地方の多数農家に道費補助で牛が導入され、乳牛飼養農家が増えたことを思うと、長屋兄の先見の明は実に画期的なことであろう。
 当時の信者は農家が多かったので、教会の牛から生まれた仔牛を信者の家で育て親牛になると、それから得られる牛乳をその農家の収入とし、生まれた仔牛を教会に返すという制度をとっていた。それが教会牛である。
 昭和26年秋、ある程度増えた牛を処分して会堂建設の費用に充て、また矢本定雄兄が相当量の木材を製材にして寄付され、設計は伝教者マルク下斗米師が当たり、建設は釧路の大工によって2代目会堂が完成した。この間、信徒の労力奉仕その他の協力があったことは言うまでもない。
 当時の建設委員は、矢本定雄、池田清五郎、長屋与治平、森谷栄男、工藤剛、色丹島から引き揚げた信徒のマルキアン鈴木喜三郎、マカリイ田中忠太郎、ソフロニイ寿山仁作の諸兄らであり、この他に吉田庄次郎、清畠の佐藤善作(もと武佐に居住していた)の諸兄が協力している。矢本兄はその後、仕事の関係で釧路に移り、釧路教会の執事を務め、永く教事に尽力された。
 昭和26年11月3日、ニコライ小野主教座下が来村なされている。2代目教会がこの秋に完成したので、主教座下によって成聖が行われたのであろう。上武佐教会のメトリカを見ると、その日、信徒7名が座下によって洗礼を受けている。村上伝教者によると、グリゴリイ小野警司祭も随伴なさったそうである。
 大正4年に斜里の初代教会、昭和7年には釧路の現教会がセルギイ主教座下によって、上武佐の2代目教会が小野主教座下によって夫夫成聖されたことは道東の正教徒にとって意義深いことである。惜しむらくは、後述するように当時の日本正教会はヴェニアミン大主教とニコライ小野主教間に確執があった時代であり、その縮図がここに垣間見せたものであるとすれば、道東の正教徒にとって何等かの警鐘であろうか。

四 クリル人に永遠の記憶を

 ソフロニイ寿山仁作兄については、今まで断片的に記述したが、明治17年に占守島から色丹島に強制移住させられたクリル人(千島アイヌ)の純血の後裔の一人である。戦前は斜古丹聖三者教会の議友として同族の代表であり、戦後は武佐教会の篤信な信徒として教事に尽力し、昭和28年には(イリネイ主教来日)、色丹島に埋葬されている祖先のパニヒダを本会に願い、7月18日午後2時より伊藤司祭、岡長司祭、武岡輔祭及び多数の詠隊者によって盛大なパニヒダが執行されている。川島歯舞村長、多田根室支庁長も参列された。
 不幸なことに、昭和29年5月、海難事故で長男昭男兄を失われ、その後、長万部町静狩の娘の嫁ぎ先に御夫婦ともに移り、兄は昭和31年5月7日、その地で永眠された。墓は静狩にある。ここに寿山兄並びに同族の父祖に永遠の記憶を捧げる。
  


第6節 出原司祭、釧路に常駐する

昭和24年に専任司祭の釧路教会派遣を請願したが、財政上の理由で常駐司祭は叶わなかった。当時の信徒はその後、教会費の納入を始め、貸地、貸家の賃貸料等教会会計を充実して司祭派遣に備えた。
 昭和26年度公会後、本会宗務局長・鵜澤長司祭、岡長司祭の両師が前後して来釧し、教勢、教会財政、また司祭選立の件について種々視察検討し、有力な助言を与えられて帰京された。昭和27年の公会に、次のような請願が釧路教会より提出された。

専任司祭派遣に関する件
 首題に関しては、当市在住信徒はもちろん、教区の全信徒の多年にわたる宿望であります。申すまでもなく道内三聖堂の一たる釧路に限り専任司祭のあらざるを甚だ遺憾とするところであります。(中略)わずか16戸の当市在住信徒が地方信徒と結束し、一大決心をもって請願に及ぶこの決意と宿望を必ずや御承知くださるよう願い上げます。なお司祭専任に対して、現在の戸数において充分の意を表し得ざるを遺憾としますが、日常の御生活に不自由なきを期すべく月額七千円也を供し、さらに当地は冬期の燃料費が相当な多額を要しますので、これら対策をも考慮し、御懸念なきよう相計るべく議決いたしました故、以上御含みくださるよう申し添えます。
    昭和27年7月1日
      釧路ハリストス正教会
         信徒代表議友長
           デミトリイ 勝永幸三郎
         釧路地方全信徒代表
              サワ 佐々木勝男
 この時の議友長、議友はすでに鬼籍に入り、現在の信徒はみな2代目である。我ら父祖が教会に神父を常駐させ、道東の信徒を神恩に浴させ、明治以来の先祖の遺徳を継承し続けるその信仰の熱意が紙面に滲み出ている。釧路地方信徒代表としてサワ佐々木の名が出ているが、兄は新得のアキラ鈴木倉之助、フェオドシヤ佐藤たか、帯広のアニキタ立花宗三郎、女満別のダニイル田中千松、北見のワシリイ向井藤太郎、川湯のワシリイ岩崎厳二諸兄姉(明治、大正の道東の正教を支えた先駆者である)ら並びに武佐・斜里教会とも連絡を取り、また訪ねては熱心に釧路教区の再建を語り合ったに違いない。昭和27年の公会議事録の教役者不在の欄に道東の教会名が次のように記録されている。
 帯広正教会 帯広市 立花宗三郎
 根室正教会 根室町穂香 久下時雨郎
 武佐正教会 中標津村字武佐 長屋与治平
 斜里正教会 斜里町字宇津内 佐藤善四郎
この公会でイアコフ出原惣太郎師が復職、叙聖され、10年の空白を経た釧路教会へ赴任することになる。
 また、札幌の猪狩神父から建議案として「釧路教会に適当な主管者を配置し札幌教区から上地区を除外されたく」と出ていることは、釧路教会にとって千鈞の重みとも言うべき助言であったことであろう。
 出原神父はすでに初老に入っておられたが、それにも関わらず熱心に市内及び地方巡回をされ、受洗を希望する家庭には洗礼を授け、婦人会、日曜学校を開き、信徒の信仰に熱心に応えられた。当時の交通事情からして地方へは列車を利用するとしても、到着後は徒歩で大変苦労なされたことであろう。聖具を入れたリュックを背負った神父の御姿は今でも古老の信徒の記憶にはっきりと残っている。
 試みに、当時(昭和28年)のメトリカ、公会議事録を見ると、師の熱心な伝道活動を窺い知ることができる。
 信徒戸数 39戸 信徒数 190名
 領聖者 146名 授洗者 38名
となっている。当時の札幌正教会の信徒数526名、授洗者17名、領聖者35名に比べても、釧路の信徒がいかに信仰に飢え渇いていたか、教会の再建に意欲を燃やしていたかが想像できよう。司祭供給費も8万4000円で、函館の近藤司祭は6万1800円、札幌の猪狩司祭は6万円となっており、請願時の約束を充分に履行している。それでも出原司祭の供給費の額は、小学校教員の初任給並みに過ぎない。
 ここに、昭和28年度の本会への定額献金納入者の氏名を挙げて、当時の釧路教会信徒、我らの先覚者に永遠の記憶を献じたい。
 アキラ鈴木倉之助 (新得)
 フェオドシヤ佐藤たか (新得)
 アニキタ立花宗三郎 (帯広)
 ダニイル田中千松
(女満別)
 イサアク田中勝治
(釧路、以下同)
 インドル武内好信
イオアン岩崎巌
 アガヒヤ鈴木ちよの
ヤコフ岡田繁
 デミトリイ勝永幸三郎
オリガ三井田オリガ
 リュボウ西田トミ
オリガ・ベロノコフ
 アナスタシヤ玉真とま
アガヒヤ藤田起江
 ワルナワ金田三郎
ポルフィーリイ矢本定雄
イオアン岩崎巌兄は、今なお元気で参堂している。
 ちなみに、当時の定額献金は教団維持に関するもので、昭和28年度日本ハリストス正教会経常費予算案では、都下信徒・一戸割り200円、地方信徒・一戸割り100円となっている。昭和29年より神学校開設のための神学校献金が別に設けられ、定額献金、神学校献金の二本立てとなる。出原神父離釧の昭和34年度定額献金は、都下信徒・500円、地方信徒は400円で、神学校献金は定額献金の4割となっている。その後、神学校献金、定額献金は一本化して定額献金となる。
 昭和29年1月7日、釧路正教会は宗教法人法による宗教法人として認証を受け、以後確実なる発展の歩みを続けて行く。宗教法人『釧路ハリストス正教会規則』は、第一章から第四章まで第36条より成立している。その規則施行当初の代表役員及び責任役員は次の通りである。
代表役員 司祭 出原惣太郎
責任役員 執事 勝永幸三郎
責任役員 執事 田中勝治
責任役員 執事 三井田利雄
責任役員 執事 玉真とま
責任役員 執事 矢本定雄
この時の会計年度は、毎年1月1日より始まり、12月31日に終わっている。その後、及川神父在任中の昭和40年12月8日に改正案が承認され、会計年度は日本正教会の公会に合わせて、6月1日より翌年5月31日となっている。責任役員も田中勝治、佐々木勝雄、岡田繁、矢本定雄、金田三郎兄らに変わっている。
 執事玉真とま姉は、前述のように戦後の釧路教会の復興にデミトリイ勝永兄らとともに尽力されたが、昭和31年3月に釧路を去り、32年に千葉県市川市に転任され(夫君俊雄氏が釧路市立病院長を辞し、習志野病院に移る。その後、とま姉は所属の神田教会に通い教事に尽力された)、49年5月23日永眠。享年75歳。釧路教会にとって忘れ得ぬ篤信の信徒である。姉に永遠の記憶を。


  

第7節 釧路正教会、道東地区の管轄教会なることを請願する

この請願は、昭和29年度の日本正教会の公会に、釧路ハリストス正教会から議友デミトリイ勝永、セルギイ三井田、イサアク田中、ヤコフ岡田、アナスタシヤ玉真諸兄姉の連名で、次のような請願書となって提出されている。
一 今回宗教法人並びに登記は、道東一円の教区を釧路ハリストス正教会の管轄として認可登記した(昭和29年1月13日宗教法人として登記する)。
一 現在の釧路正教会の出原神父を道東一円の教区(武佐・斜里を含む)を一本にして管轄せしめ牧会せしめること。
 理由 従来道東の教会は分裂したため、教会財産は極度の行き詰まり状態にあり、このままではいずれも財政上の破綻を来たし、両者共倒れになることは必至である。  一方、十勝国信者代表アキラ鈴木倉之助、フェオドシヤ佐藤たか(現佐藤重平兄の御母堂)より次のような請願が出されている。
 「この度、加島神父と釧路市の議友の一人が相談し、その議友はイリネイ主教に会見して次の通り請願されたことを承りました。それは従来の釧路教会の管轄区域を彼ら2人で勝手に且つ我等その管轄下の信者一人にも全然無断で従来の釧路教区を二分し、釧路市だけを釧路の神父に与え、そのほかの道東全域の教会を武佐教会加島神父の管区に入れることを願われた由を承り、私どもは驚きました。私どもは、かかる神に仕える資格を失える人々の管区を受けることは絶対にできないものであります。私どもは、従来通り釧路教区の管轄を離れることはできません。何卒宜しくこの儀御決定下さらんことをお願い申し上げます」。
 なんと悲しいことであろうか。相反する趣旨の請願が日本正教会の公会の俎上に載るとは!!
 これについては、昭和26年にニコライ小野主教座下が武佐教会の成聖式に出席なさったことに端を発している。座下は、同教会信徒の衷情を察して司祭加島倫師を同地に、下斗米師を清畠(当地のマルコ佐藤善作兄は斜里・上武佐教会の信徒と血縁、地縁関係が深い)に配置することを胸中お決めになっていたのでなかろうか。『上武佐開教七十周年誌』に「27年、司祭リン加島神父が着任、精力的に各家を御巡回された」とあり、メトリカにも昭和30年まで師の記録が出ている。
 前述したように、ニコライ小野主教が昭和21年の臨時公会で引退を余儀なくされて以来、毎度の公会でニコライ小野主教との確執が取り上げられ、小野主教側も昭和24年9月に「日本ハリストス正教会教団設立無効」の裁判訴訟を起こし、同教団の首座主教を認めず、ロシア正教会を日本の母教会として譲らなかったが、当時の日本正教会としての大勢は、米国メトロポリヤ(在米ロシア正教会)から派遣された主教を日本の首座主教として教団の再興、発展に取り組んでいた時代であった。
 加島神父が、出原神父(釧路)に前後して、武佐教会に派遣された結果、釧路教会に対して武佐教会より「武佐教会を主管とした傘下に釧路教会も入るように」との要望があったことは当然のことであるが、昭和26年度公会後、来釧した鵜澤局長、岡長司祭から本会の紛争、大勢を説明されていた釧路教会としては、武佐教会の御厚意をお断わり申し上げる外なかった。しかし、出原神父が釧路に在任中、加島神父は再三にわたり、道東正教会の主管司祭であることを釧路教会へ働きかけていたと思われる。頭書の十勝国信者代表の請願がそれを物語っている。
 当時の米ソの対立が日本正教会に紛争の影を落とし、道東の鶴声を一時乱したことは悲しいことであるが、神の試練として耐えなければならないことであろう。
 昭和28年、大主教ヴェニアミン師が帰米され、イリネイ師が主教に叙聖されて日本の首座主教として来日された。イリネイ主教は、戦後9年間、紛争を続けたニコライ小野主教に強力な和解を働きかけ、昭和29年4月24日に和解の調印が行われた。ニコライ主教は、イリネイ主教が日本における正教会の統理者であることを承認し、ソビエト・モスクワ総主教アレクセイの隷属より離脱した。
 釧路正教会の請願はこの事実を踏まえたもので、請願の前文には釧路教会信徒の心情が吐露されており、その前文を原文のまま紹介する。
 「数年に亘って続けられた寒心に堪えない真に見苦しき我が正教会の争いも、神の恩寵によりて漸く和解され、我等信者は同慶に堪えず衷心より神に感謝しました。ことに我が道東教会の信者は言葉に尽くすことのできない浅ましい苦悩の状態に置かれ、ただ一途に神の佑助を頼み速やかなる平和の到来に望みをかけつつ、堪えられないところを堪え、忍ぶべからざるものを忍んで来たもので、我等信者にとって他の誰よりもその喜悦の情一入でありました。我等信者はこの悦びを生かし、これが益々教会の発展を期し、過去の苦悩に鑑み、釧路及び信者の総意を代表して以下の事項を請願します」。
 この前文は、ニコライ小野主教の復帰を悦び、今後、道東の教区が統一される可能性を信じ希望に溢れた文章である。
 29年の公会でニコライ小野主教の復帰が合意され、同師隷下の5人の神品の処遇も決定された。すなわち、加島神父に対しては金成、高清水教会を仙台教区から離し、同師の管轄とするよう金成教会と仙台教区の山田司祭との話し合いが進行中であると報告され、北海道釧路教会及び十勝国信者の請願による釧路・武佐・斜里を一本化して出原司祭の管区とすることを神品会議で決定した。
 しかしながら、加島司祭は小野主教を離れて長司祭アントニイ高井師と同調し、ここに釧路正教会の悲願とも言うべき”道東教区”の希望成らず、加島神父の管轄下にあった上武佐教会は、同じ道東にありながら釧路正教会としばらく袂を分かつことになる。
 ニコライ小野主教は昭和31年11月19日御永眠。享年84歳。大主教ニコライ、府主教セルギイ師と並んで谷中の墓地に永遠の眠りにつかれている。
 主教座下と道東正教の関係は深い。昭和13年には本会の命により主教になられてからも道東を巡回なされ、武佐教会の菊池伝教者を司祭に叙聖、昭和26年には2代目上武佐教会を成聖されている。


  

第8節 イリネイ主教の釧路巡回

 日本正教会在任1年でイリネイ主教は全国巡回の途につかれ、昭和29年9月、鈴木長輔祭を帯同されて11月に北海道函館にその玉歩を印し、13日午後3時、鉄路“まりも”で函館を御出発、一路釧路へ向かわれた。14日午前7時55分釧路駅御到着、出原司祭、執事長デミトリイ勝永兄ら多数の信者に迎えられ、雨中を教会に向かう。直にモレーベン(感謝祈祷)、パニヒダ(永眠者記憶祈祷)を行い教話もなされた。9月16日午後5時、釧路教会で送別の会があり約20名が参加して記念撮影、午後8時半「幾年も」の歌に送られて旭川へ御出発なされた。当時、道東正教会の不協和音に悩んでおられた神父、信徒たちにとって、主教座下の御来釧はどんなにか喜びと信仰への力となったかは想像に難くない。その後、主教座下は旭川・札幌を巡教なされ、19日に千歳より空路で帰京なされている。
 主教座下の函館・札幌への巡回は、詳細に『正教時報』に報告されているにも関かかわらず、釧路御巡教中、15日と16日の午前中はまったくの空白となっている。この2日間は、主教には長旅の疲れを癒されたことであろうと拝察されるが、あるいは司祭加島師の道東における行動に触れられたとするのは考え過ぎであろうか。釧路教会の古老も当時の9月15日、16日については記憶にない。
 イリネイ主教御帰京され(19日)、9月21日付けでイリネイ主教及びニコライ小野主教連名で司祭加島師に次の通達がなされた。
 「東京及び日本正教会神品及び信徒公会の決議を履行せず、また日本正教会に対する最悪の行為により、貴師に対し聖務の執行を禁じ且本件を教会裁判に附す」。  出原神父が昭和27年7月、釧路に着任された時は信徒戸数わずか17戸であったが、昭和28年には信徒戸数も一躍39戸となったことは前述したが、師の熱心な宣教活動により毎年信者が増加し、領聖者に至っては率において札幌・函館教会よりも多く、師が昭和34年7月に転勤された年は信徒戸数50戸、信徒数225名、領聖者100名を数えている。ちなみに、この年の札幌教会は信徒戸数209戸、信徒数576名、領聖者115名と記録されている。
 出原司祭着任から函館へ転勤するまで、武佐教会、斜里教会とも師の管轄外であり、したがって釧路・川湯・網走・北見・帯広・新得地区を司牧し、武佐教会との確執に苦しまれたことであろうが、釧路に愛着を残して函館に行かれたと、古老の記憶に残っている。
 師は徳島県出身、大正3年に正教神学校を卒業し、東京市内各教会を歴任したが、ロシア革命による伝教資金途絶により退職、その後、渡満して大連の会社に勤務し、鈴木長司祭に協力して会事に尽くされたが、敗戦後、教会に復帰し、釧路教会、函館教会を歴任して昭和48年休職。最終任地は栃木県馬頭教区(馬頭・烏山・宇都宮教会)である。師は昭和54年2月15日、埼玉県狭山市の病院で安らかに永眠された。享年86歳。ニコライ堂の納骨堂に永寝なされている。
 


  

第9節 田崎司祭、釧路へ赴任する

 昭和34年の公会で、函館教会の長司祭近藤昇太郎師が本会宗務局長に転じ、後任として釧路教会のイアコフ出原師が函館、金成教会から若い青年司祭テモフェイ田崎清佐久師を釧路教会へ迎える人事異動となる。
 教区(釧路・川湯・網走・北見・帯広・新得地区)は出原神父がよく整備され、若い神父を迎えて教勢も活発化の傾向にあったが、老朽司祭館の改築と聖堂の大修理が神の試練として青年神父を待ち受けていた。
 老朽司祭館は、明治35年に会堂兼司祭館として建てられ、損傷甚だしく、何度も修理を余儀なくされたが、特に厳冬期の冬はとても人の住める状態ではなかったようである。出原神父夫人が釧路に御出でになった頃(神父より1年ほど遅れて来釧)から司祭館の新築が執事・信徒間の大きな話題となっていた。
 聖堂は昭和7年と比較的新しいが、30年近くの星霜を経て至聖所の壁も落ち、窓枠は腐食し、板壁の隙間風で冬は寒く、外套を離すことができないほどであった。夏は雨が漏り、このままではどうにもならない状態であり、聖堂の建て直しもこの頃から叫ばれていた。
 当時の執事長はデミトリイ勝永幸三郎、執事はポルフィーリイ矢本定雄、イサアク田中勝治、サワ佐々木勝雄、ワルナワ金田三郎の諸兄である。教勢は45戸、その中に郡部の信徒もおり、釧路在住の信徒は30戸前後であった。主日の祈祷後、何度となく執事会を開いたが、何といっても資金の調達が問題となった。35年12月の降誕祭後(降誕祭は従来ロシア暦により1月7日であったが、昭和34年より12月25日と、34年に本会より通達された)、臨時信徒総会を開催し、司祭館の新築と聖堂の修理が決定された。
 当然、建設委員を指名して体制を固めたはずであるが、当時の必要書類、寄付台帳が散逸し詳細は不明である。ただ、この時、岡田ひで姉の夫君である故イアコフ岡田繁兄の献身的な奔走によって、旧教会跡地516㎡(156坪)が木田弁護士に売却され、その代金が有力な財源となったことは、神の御加護として当時の信徒の記憶にはっきりと残っている。
 翌昭和36年9月1日、70.24㎡(21坪)の平屋建の新司祭館が完成したが、同年7月の公会で田崎神父は横浜教会の副司祭に発令となり、新司祭館に入ることなく離釧、同年、一の関教会より赴任したペトル及川淳神父が入居された。11月に聖堂の修理も完成し、同5日、ペトル及川神父によって成聖された。工費122万円と記録されている。 それ以後、執事会、夫人会等の集会は神父の居室、大祭後の信徒の集会は司祭館の奥の部屋を通して行われるようになった。そこにも、神父の居宅としての狭隘という問題が残されたが、当時の教会の財政上、やむを得なかったことであろう。
 テモフェイ田崎神父は、イリネイ主教により昭和29年10月に開校された戦後の正教神学校(1874年にニコライ大主教が創立した正教神学校は1919年以来資金がなかったため閉鎖されていた)の第一回卒業生である。昭和32年卒業と同時に金成教会の伝教者となり、同33年4月、イリネイ主教によって司祭に叙聖された前途有望な青年司祭であった。昭和34年の公会で釧路に赴任し、36年に横浜教会へ、42年7月の公会で京都正教会へ転任した。その後については不明であるが、晩年は日本正教会を去り、家庭的にも不幸な生涯を終えられたようである。
 ちなみに、田崎神父来釧時の初年度・昭和35年度の教勢は次の通りである。
 信徒戸数・45戸、信徒数・193名、洗礼者10名、領聖者16名となっている。出原神父時代と比較して領聖者の数が少な過ぎるのはどうしたことであろうか。

 
  

第10節 ウラジミル主教の釧路教区巡回

 昭和37年、ニーコン大主教御帰米、10月にウラジミル主教が来日し、昭和38年8月31日より9月8日まで北海道各教区を巡教なさる。北海道初巡回の第一歩を道東の釧路ハリストス正教会に印されている。
 釧路正教会が戦後の虚脱感から抜け、立ち直り始めた昭和26年7月の教勢は、猪狩神父の報告によると17戸、32名であったが、出原神父、田崎神父を経て及川神父となり、ウラジミル主教の御来釧時には信徒戸数50戸を超え、信徒数も200余名となり、聖堂も修理され、特に平屋ながら司祭館も新築されて面目を一新した頃であった。
 8月31日、先着した近藤長司祭(本会宗務局長)、新妻輔祭、大浪副輔祭、当会の及川神父によって晩課祈禱が献ぜられ、翌9月1日(主日)には札幌の日比司祭も加わり、ウラジミル主教司祷により聖体礼儀が執行された。領聖者は子どもを除いて20名以上、地方教会の釧路教会としては稀に見る奉事式であり、釧路市の一大盛事として報じられた。
懇親会においてデミトリイ勝永執事長は、発展途上にある釧路教会の沿革、特に婦人会活動の状況(当時の夫人会長は岡田ひで姉であり、婦人会の結成は姉の力の負うところが大きかった)、及川神父の熱心な伝道をお伝えし、最後に主教他、各司祭に感謝の御礼を申し上げた。主教の御挨拶は大浪副輔祭の通訳で「釧路教会の皆さまは本当に立派です。特に婦人会の活躍する教会は必ず発展します」との有難いお言葉を頂戴し、婦人会に聖像を祝福された。
9月2日、主教、新妻師、大浪師は、当会の及川神父、信徒藤田昌久兄の案内で阿寒湖の景勝、摩周湖の展望を愛でられ、川湯のマカリイ岩崎俊夫兄の“華の湯”温泉に宿泊、パニヒダを献ずる。この時、岩崎兄家族20数人がパニヒダの聖歌を歌い、十字架接吻の時に聖名を子どもに至るまで知っており、「良く教育が行き届いている」とお褒めなされた。9月3日、バスで北見に向かい、沿道の樹林の中、屈斜路湖畔をめぐり、美幌峠で雄大な展望を楽しみ、北見市に入りテイモフェイ山内勲兄(和田出身で明治35年、標津で福井神父により受洗し標津教会を支えたイオアン山内亀雄兄の三男である)宅でモレーベン(感謝祈祷)、若松温泉のイオアン向井健三兄宅でモレーベンを献祷し、同家宅一泊。9月4日、北見駅発オホーツク号で及川神父、藤田、山内、向井の諸兄に見送られて主教一行は函館に向かわれた。
ちなみに向井家の初代は、明治25年にティト小松神父により、根室で長男ワシリイ藤太郎兄と受洗し、根室教会を支えた一人であるティト向井三四郎である。明治後期、一家を挙げて北見国若松地区に移住して以後、親子ともども網走教会の興隆に尽力なされた。イオアン向井兄は藤太郎の長男であり、現シメオン向井聖一兄はワシリイ藤太郎の次男オニシム洪規兄の長男である。向井家は初代から四代にわたる篤信な家系である。


  

第11節 及川司祭、第一回北方墓参団に参加する

 北方領土返還運動は昭和25年から叫ばれ、25年には千島及び歯舞諸島返還懇請同盟(昭和38年北方領土返還期成同盟に改組し、40年社団法人化)が結成され、道民大会や全国的規模の大会が開かれる等、日本国民に四島返還の気運が高まりつつあった。
 北方墓参については、昭和32年2月、千島居住者連盟(昭和30年千島歯舞諸島居住者連盟として発足、33年社団法人化)が人道上の見地から、国や道などの関係方面に北方墓参に関する嘆願書を出し、墓参実現の運動を展開する。それを受け、外務省もソ連政府へ初めて北方墓参を申し入れた。昭和38年には日ソ協会根室支部も北方墓参実現のための署名運動を関係各方面に始め、北方墓参の気運が高まっていく。昭和39年5月、ソ連政府から歯舞諸島、色丹島の墓参承認の通告があって、首題の第一回北方墓参となり、及川神父が日本ハリストス教団を代表してこれに参加する。
 この時は、歯舞班と色丹班に分かれたが、及川神父、ジノン石井、アキリナ大橋、鈴木ツユの諸兄姉(3人はもと斜古丹教会の信徒)らは色丹班の一行とともに下関水産大学の練習船天鷹丸に乗船し、色丹島に渡り日本人墓地を訪れた。まず仏教により慰霊祭が、次いでクリル人及び日本人信徒の眠る父祖の墓前でパニヒダが行われた。決して上手とは言えない詠隊であったが、真心を込めて歌う聖歌は人々の心を打つものがあった。その後、ここの墓前にリティヤ(パニヒダより簡素であるが、中身の濃い永眠者記憶祈祷)を献じた。大正6年11月4日、この地で永眠された伝教者イサイヤ関師の墓は、墓地より30mほど離れた傾斜地に埋もれてあった。
 墓地は小高い丘の上にあり、斜古丹湾が一望に見渡せる。昔は湾岸の中央からハリストス正教会、神社、お寺、学校と一望に見渡せたそうであるが、今は別な建物が建ち、跡形もなかった。9月8日に出航し、11日早朝、花咲港へ帰着すると、及川神父の墓参同行記に載っている。師はその後も第三回(昭和41年8月)の北方墓参にも参加している。
 その後、北方墓参は9回目を迎える昭和51年5月より、ソ連はこれまでの身分証明書による墓参を認めず、ビザ(入国査証)の携行を要求してきたため、日本政府としても墓参を中止する。61年7月、日ソ間で従来の身分方式による墓参に合意し、同年8月から北方墓参が再開された。しかし、61年、62年の墓参は、色丹島の太平洋岸の稲茂尻だけであったが、平成元年には色丹島最大の部落があった斜古丹も49年以来15年ぶりに認められた。
 上武佐教会のジノン石井兄は、25年ぶりに墓参団に加わり色丹島の父祖の墓参をする。平成元年8月24日発、27日に帰港している。以下、石井兄の墓参記によると、「この時、偶然にもイサイヤ関伝教者のお孫さん(現在札幌市在住の関広司氏)と同船した。6年前に亡くなられたお父さんが、生前何回も墓参を申し込んだが、島民でないということで許可が下りず、今回、イサイヤ関氏の没後70年にしてようやく願いが叶ったそうである。25年前に先生のお墓を確認した地点に関氏を案内したが、お墓がなく大変申し訳なく思いながらも、全部のお墓に米、菓子、酒などを献じてお参りしていたところ、突然“神僕イサイヤの墓、大正六年十一月永眠”と刻まれた石塔(30mほどの沢下から現在の地に移したのであろう)があった。思わず大声で”関さん”と呼び、2人で心よりお祈りしてきた」と述懐している。
 墓地は昭和39年の第一回墓参時の3分の1ほどに狭まり、民家と道路に変わっており、信者の墓も聖名のないものは石碑が取り払われ、石井家の墓も台座だけ残っていたそうである。
 この北方墓参は、日ソ両国間に人道的措置と理解されながらも、北方漁業、四島返還運動の渦中にあって、日ソ間対立の狭間の埒外に完全に抜け出すことになるのはいつのことであろうか。


  

第12節 第三回北海道信徒大会

 昭和42年10月7日(土)、8日(日)、9日と、第三回北海道信徒大会が、函館、札幌教区の神父、信徒、当教区併せて、釧路教会において盛大に行われた。これは、かねてから北海道地区の信徒懇親会を持ちたいとの声があり、昭和39年度公会後、ぜひ札幌において開催するようにとの各教会の希望によって、第一回は昭和40年に札幌、第二回は翌年函館で開催された。
 この背景は、昭和39年9月より米国正教会からの援助金が一時絶たれた(アラスカ大地震災害のため)ことによる本会財政の苦境、また本会の土地問題等、教勢の不振につながる問題等であり、各地北海道信徒大会において教会基金の獲得や財政確立、教会発展のための教役者の養成及び生活保障、司祭給与改善を目的とする札幌教会日比神父の提唱による北海道地区基金(ミッション)、さらに道地区信徒相互の親睦を図るため、司祭の交換奉事あるいは聖歌隊が他教会に出かけること等が話し合われた。
 7日6時15分、釧路聖神降臨堂において、徹夜祷が函館教会の厨川神父の司祷で始まり、詠隊は札幌・函館の合同聖歌隊の四部合唱で、指揮は函館教会イシドル中居伝教者であった。8日の聖体礼儀は、本会の武岡局長を中心に札幌の日比神父、当会の及川神父、指揮は厨川神父で、函館・札幌の合同聖歌隊の四部合唱で荘厳に行われた。札幌・函館両教区信徒40名、当教区60名でこの小さな聖堂は一杯で、釧路教会にとっては四司祭による奉事、加えて札幌・函館の合同による四部の聖歌等かってない盛事であり、その感激は何時までも記憶に残るものであった。
 聖体礼儀に続いてデミトリイ勝永兄の表彰に移り、同兄には主教と局長サインの表彰状と記念の燭台が武岡宗務局長より贈られ、信徒一同は同兄のために“いくとせも”を歌って祝福し、続いてパニヒダが執行された。
 デミトリイ勝永兄は、明治22年に茨城県那珂湊に生まれ、明治41年、19歳で単身渡道して釧路に落ち着き、明治末期にペトル坂本岩男兄の熱心な勧誘によりハリストス正教徒となる。大正4年のセルギイ主教御来釧時には議友として主教を御案内し、動乱の戦中から戦後にかけて良く教会を守り、昭和27年に無牧の教会に出原神父をお迎えし、今日の釧路正教会の基盤を作り上げた。兄の生涯は釧路正教会の歴史と言っても過言ではない。現執事ペトル勝永兄の尊父であり、昭和54年8月31日永眠、紫雲台墓地に葬られている。
 8日、諸奉事が終わり、近くの中江学園の教室を借り、当教会婦人会手作りの赤飯で昼食を済ませ、その後の集会は武岡、日比、厨川各神父の講話、引き続き北海道内の共通問題について2,3の教義が行われた。その晩は川湯の“華の湯”温泉(マカリイ岩崎兄経営)に泊まる。翌日、貸切バスで屈斜路湖畔巡り、摩周湖の展望、阿寒湖の絶景を堪能して十分に歓を尽くし、釧路における信徒大会は有終の美を飾って3日間の幕を閉じた。
 さて、釧路教会としては以上のような対外的な大行事は初めてであり、大会の開催を危ぶむ声もあったが、全信徒一丸となり、大会委員長に執事岡田繁、企画運営・金田三郎、会計・白田貞子、藤田昌久、接待・岡田ひで(婦人会全員)、渉外には田中勝治執事長を配し、各部門には2、3の信徒を当て、大会相談役、顧問には及川淳神父、勝永幸三郎、矢本定雄、佐々木勝雄という陣容で遠来の神父、信徒方を迎え、7,8,9日の3日間の大会を盛大裡に終わらせた。
 この北海道信徒大会は、翌年、函館開教百年に併せて函館で開催されたが、昭和45年に聖自治日本正教会が成立して新しい事態を迎え、その後立ち消えとなる。  この信徒大会を通して、道内3教会の交流、信徒の結束、親密が深まる。昭和53年9月の上武佐教会の成聖式、54年9月の斜里教会の成聖式には、札幌教会の有原神父が遠路お出でになり、随行の聖歌隊により成聖式も一段と盛り上がった。札幌・函館教会からも多数の信徒が参祷下さっている。61年の武佐教会七十周年記念式典にも有原神父はじめ信徒方が参加され、道東の原野にたたずむ田園教会に信仰の友情を賜っている。
 平成元年2月の道東セミブロック信徒研修会に、札幌・有原神父、高橋誦経者、盛(さかり)教会から今は亡き牧島神父、仙台から加藤長輔祭が来釧され、当会の田丸神父とともに、武佐教会・村上伝教者の伝教20年の功績に対して感謝状、記念品が贈られ祝福されたことは記憶に新しい。函館の築茂神父は急用のため来られなかった。その後、フェオドシイ主教座下より祭服一着、ブロンズ製卓上十字架が村上師に贈られたことを付記する。


  

第13節 上武佐正教会、日本正教会に復帰する

 昭和45年7月5日、道東の鄙びた上武佐教会において、母教会(ソビエト)から長司祭アルカデイ尊父を迎えて全道信徒総会が開催された。それは、「聖自治日本正教会の管轄に入るか、ロシア母教会に止まるか」という二者択一を迫られたもので、上武佐教会にとっては世紀の総会、大方の信者にとっても夢想だにしなかった総会であった。
 この年の5月、東京駒込教会で開かれた公会に出席した執事長コスマ狩野、ジノン石井諸兄らに対して「上武佐教会、斜里教会、日高の清里教会は、ニコライ堂側の自治正教会に入るか、母教会に残るか」という問題が提示された。そのことで嘆願書の提出を迫られたのであろう。彼らにとって、それはあまりにも唐突であり、何故こうなったのか、何のために北海道からこの公会に出席した我々が、その去就を決めなければならぬかということの重大さに苦しみ、帰道して総会を開き、意思決定をせざるを得なかったのである。ここに至った経緯について説明しなければならない。
 戦後、荒廃した日本正教会において、昭和22年アメリカのヴェニアミン主教が釧路へ巡回なされた時、武佐の篤信な信徒は釧路に出て主教に降福を賜り、昭和24年には木柵を本会に贈って大主教ヴェニアミン座下の賞賛を受けたほどであった。同25年には伝教者下斗米師を迎え、26年には2代目教会が主教ニコライ小野座下によって成聖されている。「教会があり、その教会には神父がおり、そこで神に祈り、神父より聖体を頒ける」。これが信者の胸中に深く根ざしていた。釧路の出原司祭と前後して、司祭加島師が昭和27年に着任、師は精力的に斜里・武佐・標津・根室の信者を巡回され、その後、武佐教会と釧路教会はしばらく袂を分かつことになった経緯については前述したが、いつしか武佐教会は、モスクワ総主教庁の母教会に属する佐山主教(駒込教会)の管轄教会になっていた。昭和42年9月、ロシア母教会の主教ユヴェナリー主教座下が掌院佐山師を伴い武佐に巡回され、信者一同に祝福を賜っている。この年の10月に母教会は日本伝道会(ミッション)の活動を再開し、掌院佐山師を伝道会長に任命した。12月、掌院佐山師はモスクワで主教に叙聖されている。43年9月、母教会のユヴェナリー、ニコライ佐山両主教座下が武佐に巡回され、44年には上武佐に待望の司祭館が建ち、管轄司祭としてイオアン牧島師が着任している。上武佐・斜里教会の信徒にとって、戦中・戦後を通して信仰を守り続け、今やまさに信仰的な平安を取り戻した時期であったのであろう。
 だが、日本正教会も大きく変わろうとしており、事実、大きな転機を迎えていた。上武佐教会との関連上このことについて簡単に述べる。
 昭和44年9月、アメリカのメトロポリヤ(府主教庁)から突然アレクサンドル・シュメーマン長司祭が来日、次のようなことを説明された(昨年夏、ジュネーブでソ・米正教会の接触があった)。
一 在米ロシア教会はモスクワ総主教と教会法的関係に復帰する。
一 日本正教会もモスクワ総主教と正常な関係に復帰し、教会法による聖自治教会となるべきである。
一 そのためには、日本人の複数の主教選立を必要とする。
 これを受けて、同年10月に臨時公会が開かれ、日本正教会の自治独立と、そのために複数主教推戴につき、主教候補として鹿児島正教会の司祭ワシリイ永島新二と豊橋正教会の輔祭セラフィム・シグリストの両師が選立された。永島師は昭和44年11月2日の主日に、サンフランシスコの大主教イオアン・シヤホスコイ、日本の主教ウラジミル座下によって主教に叙聖された。現日本主教フェオドシイ永島新二座下である。
 昭和44年11月26、27、28日、東京法曹会館において、日・米・ソの正教の国際会議が開かれた。昭和44年の臨時公会議事録によると、26日にはモスクワ側はニコデム府主教、アメリカからキブリアン主教、駒込教会から佐山主教、日本正教会からは武岡宗務局長代理がそれぞれ会議に臨んだが、この日はほとんど会議が決裂状態に至った。27日にはニコデム府主教の方から佐山主教を除いた日本ハリストス正教会との話し合いを望まれ(当時、駒込教会側から日本正教会に対して、ニコライ堂とその土地の返還請求の訴訟が提起され相争っていた時であり、後述するように日本正教会としてはその裁判の中止を求めており、ソ連側としては、その当事者側の駒込教会の佐山主教が出席することは好ましくないと考えたのであろう)、この日はニコデム府主教一行とアメリカのシュメーマン師を加えて 日本正教会との会議となり、その中で大半の件が友好的に決まったように記されている。12月29日の臨時公会議事録に以上の26、27、28日の会議内容が載っているので要約する。
 日本ハリストス正教会の代表団は、ロシア正教会をその母教会と認め、かつ外部事情のため中断せる母教会との精神的連携を遺憾とし、日本ハリストス正教会が、この連携の回復を切望していることを声明し、教会法に照らして日本正教会の自治を次のように考えていると述べている。
一 首座主教及び主教(複数)を叙聖する権利を有すること。
一 その内政における自治、また日本ハリストス正教会の憲法に従う自己財産運営の権利を有すること。
 このことは、日本ハリストス正教会に与えられる自治がアメリカ府主教庁の日本ハリストス正教会に対する管轄の中止、並びに日本における別個の正教ミッションの閉鎖、かつ教会の分裂と教会財産の争論に関連せる一切の裁判の中止(前述の駒込教会側)を意味する。これに対して府主教ニコデム師は次のように声明している。
一 モスクワ及び全ロシアの総主教聖下及びロシア正教会のシノド(宗務会院)は、モスクワ総主教庁の組織内の日本ハリストス正教会の自治を、望ましきかつ可能なるものと思惟する。
一 自治に関する教会法に照らして、日本ハリストス正教会の選出した首座主教は、モスクワ及び全ロシアの総主教により許可を必要とする――以下後略。
一 母教会との関係調整は、当然ミッション並びに裁判の中止を意味する。またモスクワ総主教庁は日本において自己のポドウォリエ(修道士用祈祷所兼宿舎)の保有を望ましきものと考える。ただし、直接総主教庁の任命するその聖職団は、日本ハリストス正教会の地域内において行政権を有しないーー以下後略。
 昭和45年3月15日、モスクワ主教庁より日本正教会代表団の招請があり、日本から大主教ウラジミル、主教フェオドシイ、長司祭ワシリイ武岡、司祭ミハイル樋口、司祭サワ大浪、信徒村井の6名一行が訪ソし、4月21日、聖務会院の諸神品とともに聖体礼儀を献じ、総主教の住むルキノ村の別邸で総主教アレクセイ聖下より、聖自治日本正教会のトモス(公文)と聖膏と、府主教に2つのパナギアを胸にかける祝福を得た。かくして日本正教会は、ニコライ師が1861年に来朝して以来百年、日露戦争、ロシア革命、第二次世界大戦を経て聖自治独立教会として発足するに至ったのである。
 国際情勢としても、アメリカとソ連とは決して良好な状態ではなく、戦後の原水爆をめぐる両国の競い合いは今や人工衛星へと力点を移し、ソ連のスプートニク衛星打ち上げ成功以来、月面に初めて人類の痕跡を残したアメリカのアポロ11号等に見るように、宇宙空間を利用した人類破滅を思わす終局的ともいえる兵器開発に向かっていた。また、ベルリンに一夜にして“東西分断の壁”が築かれ、あわや全面核戦争の危機をはらんだ“ソ連のキューバにミサイル基地の設置”、中ソの国境紛争、ベトナム戦の泥沼化等、東西の対立は枚挙にいとまがない。
 またソ連の母教会は、1917年の革命以来虐げられ、第二次世界大戦後、一時正教会への圧力は弱まったものの、共産党政権の反宗教的態度に変わりなく、聖堂閉鎖や新たな宗教弾圧等が展開され、正教会の活動は年々衰微の途を歩まざるを得ず、米国正教会、日本正教会としては、共産党政権下にあるロシア正教を到底正常な正教会であると認め得ざる時代であった。
 この時期に、ロシア正教会がアメリカ正教会に、またアメリカを通して日本正教会に友好の手を差し伸べたことは、国と国との軋轢、自由主義、共産主義という思想の対立を超越したものであり、神が人の叡智を呼び覚ましたともいえるのではなかろうか。
 日本正教会は、昭和45年に東京大主教教区(府主教ウラジミル)、西日本主教教区(京都の主教フェオドシイ)、東日本主教教区(仙台。昭和46年12月に掌院セラフィム師が主教に叙聖される)の3つの主教区を持つことになった。2年後、ウラジミル府主教の帰米によりフェオドシイ府主教が実現し、府主教が西日本主教を兼ねる。また、昭和63年にセラフィム主教が帰米し、フェオドシイ府主教が東日本主教も兼ね現在に至っている。
 上武佐教会での北海道信徒大会は、昭和45年7月5日である。前年のソ・米・日の正教会の国際会議は11月26、27、28日に開催され、日本正教会はすでに4月には聖自治日本正教会として発足している。あまりにも時間的な差があり、なぜ信徒大会がもっと早く開かれなかったのであろうか。ただ国際会議の27日には、前述のように佐山主教が除かれている。そこにモスクワ主教庁(総主教アレクセイ聖下)が、日本正教会に対して自治を与えようとする並々ならぬ意欲を窺い知ることができる。反面、駒込教会(佐山主教)に聖下の真意が伝わっていたのだろうか、またそれを理解していたとしても、上武佐教会のジノン石井兄が「駒込教会の佐山主教が総主教アレクセイ聖下の御深慮に対して、こうしなければならぬという具体的な指針を示して欲しかった」と語る言葉の中に、当時の駒込教会側としての対応や心情を汲み取ることができよう。
 北海道信徒大会は、この情勢を把握した牧島神父の司会によって全員の賛成を得て、聖自治日本正教会に合併という決議となり、直ちにその議事録が露文に訳されてアルカデイ尊父に託された。会議内容の詳細については明らかでないが、ジノン石井兄の「一つの教会であるべきものが二つに分かれた。これは第二次世界大戦の破局がもたらした我々の意志外のことである。日本人が一つにまとまる機会を与えられた今、いかに苦しくとも将来に禍根を残さぬためにも、日本正教会と一つになるべきである」と言う素朴な言葉の中に、上武佐教会における総会内容を窺い知ることができる。なおも兄の言葉が続く。「上武佐教会が日本正教会に合併できたことは、ひとえに牧島神父の英断によるものである」と師を賞賛している。当時の日本正教会は、教会ごとに財政の独立化を図っており、上武佐教会のような小戸数の信徒では教会の運営は不可能である。今まで師が牧してきた信徒は、釧路教会の管轄下に入らなければならない。おそらく師は自己の職を賭して迷える牧群を導いたことであろう。
 昭和45年7月5日の上武佐教会における総会議事録は、アルカデイ長司祭に託されたが、これに対するモスクワ総主教庁よりの書簡は年末を迎えた12月に日本正教会に送付されてきた。1970年12月1日に開催されたモスクワ総主教会議決定による指令1254号(1970年12月2日付)である。それには次のような事項が明記されている。
一 総主教庁管下の北海道教区は全部聖自治日本正教会の管轄下に移す。
一 司祭イオアン牧島師を総主教管轄下より解任し、聖自治日本正教会の全日本及び東京の大主教・府主教ウラジミル師の管轄下に包含されることの認可。
 かくして、上武佐・斜里教会は、釧路教会管轄の有力なる一肢体となり、釧路教会ともども今後の発展に向かって邁進することになる。牧島神父も名実ともに教団の一員として主イイエス・ハリストスの証者となられたのである。ちなみに、信徒数は武佐地区38戸、147名、斜里地区15戸、67名と発表されている。
 これより先、牧島神父は昭和45年7月の日本正教会通常公会に上京して、武岡宗務局長を通してフェオドシイ主教、ウラジミル府主教に、上武佐教会の日本正教会帰属の許容をお願い申し上げたことと思う。師は公会に出席して拍手をもって迎えられている。当時の公会人事委員長有原師(現札幌正教会の有原長司祭)が、公会で次のような発言をされている。
 「本公会劈頭に武岡長司祭から御紹介がありました牧島神父及び武佐・斜里・道南日高地方信者の方々のことでございます。私ども司祭団は武佐・斜里・日高地方管轄のイオアン牧島司祭及び所属信徒を、ロシア正教会より正式認可の下り次第、本教会に受け入れることを確認し、それを悦びます」。
 この年、11月の臨時公会には、牧島神父は教職員代議員(上武佐教会)として、釧路教会の長司祭ペトル及川淳師とともに出席している。この時、上武佐ハリストス正教会執事長コスマ狩野勉、執事ステファン工藤剛、ジノン石井徳雄、パウエル村上賢次名で「上武佐ハリストス正教会(斜里教会も含む)の釧路ハリストス正教会管轄復帰の件」という請願を本会に提出している。
 だが昭和45年、上武佐教会で「聖自治独立教会に入る」と決議して以来、牧島神父に対する司祭給与はない。昭和46年10月に師が盛岡正教会に赴任するまで、執事長のコスマ狩野、執事ジノン石井両兄の神父に対する経済的援助は、今もって上武佐教会の信徒に語り継がれている。また札幌正教会での執事会は、武佐教会在住の牧島神父への経済的援助を決議している。すなわち、昭和45年8月25日に札幌正教会のイアコフ日比義夫神父とシメオン平録三兄は、長途札幌より武佐教会を訪れて牧島神父を励まし、師の窮状に対して10月より翌年、牧島神父が盛岡正教会に赴任するまで毎月2万円を送金している。この札幌正教会の友好的援助は、上武佐教会に永遠に記憶され続けることであろう。なお、管轄の釧路教会からは月5千円の援助があったことを付記しておく。
 当時の上武佐正教会の執事長コスマ狩野勉兄は、惜しくも昭和46年12月、交通事故で永眠なされた。兄は牧場を経営していたが、仕事は夫人、子ども任せで会事に尽力し、牧島神父とともに武佐教会を蘇生させた篤信の信徒である。現狩野廣居兄の実弟であり、明治末期から大正にかけて根室教会を支えたロギン狩野万五郎兄の子息である。宜なるかなと思う。
 また牧島神父が武佐を去るに当たって後事を託された方がいる。その人こそ、それ以来、上武佐教会を守っている現パウエル村上賢次伝教者であり、今日の上武佐正教会あるは、ひとえに師の真摯な奉仕によるものである。なお、パウエル村上賢次兄は牧島神父の推薦により、昭和46年8月15日、東日本主教管区臨時統理長イリヤ山田以利亜長司祭を通じて、聖自治日本正教会の府主教ウラジミル座下によって自給伝教者に祝福されている。

 納骨堂建設(上武佐正教会)

 昭和43年、中標津町は区画整理のため、上武佐地区の墓地移転を決定した。移転には5年間の猶予期間があったが、教会の信者は早速遺体発掘に取り掛かり、すべて荼毘に付し、当時上武佐教会で常住管轄されていた牧島神父によりパニヒダが献じられ、一応教会に遺骨を安置した。その時点で神父はすでに納骨堂建設の構想を抱いていたようであるが、昭和46年に牧島神父は盛岡教会に転任なされたので、在任中は実現できなかった。
 昭和48年、当時の執事長石井徳雄兄より納骨堂建設の提案があり、教会にいつまでも遺骨を安置しておく訳にもいかず、教会のそばに納骨堂があればいつでも祈祷ができるという趣旨で、信者各位合意のもとに昭和48年納骨堂を建設し、セラフィム主教座下の来臨を賜り、成聖され総パニヒダが執行された。しかも、我が正教会としては全国でも最初の納骨堂であったようである。4坪のコンクリートブロック、モルタル塗り、工事費70万円。少ない信徒の献金で完成したものである。
 上武佐教会の草創者フィリップ伊藤繁喜兄、また上武佐教会の先駆者諸兄姉、さらに戦後色丹島から引き揚げてこの地に骨を埋めた信徒らが、ここに安らかに眠っている。
 その後、牧島神父が再度管轄司祭として釧路ハリストス正教会に赴任されたのを機に、昭和59年に神父指導のもとに納骨堂内部の充実を図り、電灯も取り付け、夜間祈祷ができるようになった。


  

第14節 釧路正教会信徒集会所の建築

 昭和36年、釧路正教会信徒は待望の司祭館を新築し、新任のペトル及川淳神父をお迎えした。
 しかし、教会財政はいたって厳しく、道東の劣悪な気象条件の中で30年の星霜を過ごした聖堂を保守するのが精一杯である。司祭館を集会に使用している現状から、独立した信徒集会所建築の必要性は痛感されていたが、現教勢下での建築は難しく、この鬱々とした状態は10月年余り続く。
 天の配剤か思いも寄らぬ朗報があった。それは北海道地区基金(司祭給与改善・教会間の相互扶助を目的とし、昭和42年10月発足)に昭和48年8月、苫小牧の篤信者マリン佐羽内智兄より2千万円の高額献金が寄せられ、基金規模が一気に確立し適切な活用を考える段階となったことである。これにより、同49年6月新規約が作られ、この基金は総裁に東日本のセラフィム座下を戴く「東日本ミッション北海道基金」となる。理事長には札幌教会執事長ワシリイ柏村一郎兄が選出された。基金の運営は道内の信徒を中心に司祭を加えた理事会があたり、道内三司祭の直接援助と司祭館新築等を目的としたものである。
 この神の恩寵とも思える好機の到来に、釧路教会積年の集会所建築構想は一挙に具体化し、昭和50年4月、降誕祭の佳き日に建築計画の立案に入る。計画の骨子は司祭館(平屋建21,5坪)を一部改装(1,25坪)補修補強の上、2階に厨房・手洗所を含む26坪の集会所を増築することとし、約650万円の建築費を見込んだものである。  昭50年5月21日、基金より500万円の融資決定があり、同28日着工、同年9月14日、管区内外信徒およそ50名が集まり、司祭館・集会所の完成を祝う信徒懇親会が新装なった集会所で開催された。
 昭和50年7月1日付の東日本ミッション北海道基金総裁及び理事長宛ての金五百万円也の借用書が現存し、それによると、期間27年、利率年3%とある。また借用書に添付の増改築収支計算書には、献金279万1000円(釧路管区内)、19万円(管区外)とかなりの金額が記されているが、工費も防火設備を含め779万9150円、備品その他26万3450円、合計806万2600円と、当初計画より大きく膨らんでいる。
 ここに謹んで、この事業を達成された当時の管轄司祭ペトル及川淳神父、今は亡きワルワナ金田三郎執事長、ポルフィーリイ矢本定雄、デミトリイ勝永幸三郎ら先人諸兄の辛労に感謝し、敬意を捧げたい。
 借用した500万円は、逐年返済を続け、平成3年度期首残は135万円となっている。


  

第15節 十数戸、努力の結晶 上武佐正教会の成聖

 秋晴れの昭和53年9月24日主日、日本最東端の上武佐ハリストス正教会(生神女就寝教会)の会堂新築成聖式が、東日本主教教区セラフィム主教座下によって執行された。陪祷されたのは、同教区宗務局長ユウスチン山口神父、管轄のペトル及川神父、前管轄司祭イオアン牧島、札幌のキリール有原、石巻のニコライ築茂の諸神父、仙台のワシリイ加藤長輔祭、地元武佐のパウエル村上伝教者等である。
 聖歌隊が札幌から遠路駆け付け、四部による聖歌は武佐教会として初めてのことであろう。隣接の斜里教会、釧路教会はもちろん、札幌・苫小牧・小樽の各教会からも信者たちが参堂し、約120名ほどの参祷者の見守る中で会堂内外が成聖された。
 正面の聖障は、ほとんどが札幌正教会から贈られた見事なカラー写真である。聖障の両サイドに掲置されたイコンは、山下りん筆になる救世主と生神女であり、左側側面には十二大祭と復活のイコンが三段に掛けられている。これらのイコンは、初代教会が標津原野のこの地に建てられた際、ステファン工藤剛兄が標津の宮嶋駅逓から馬車で運んだ根室の松本町にあった根室教会のイコンである。
 また至聖所正面に掲置されている「ハリストスを抱いたマリヤ」のイコンは、四国松山のロシア捕虜収容所にあったものと言われている。さらに天門中央の上の十字架に装架されているブロンズ製の救世主の小像は、色丹島引き揚げの際、宮城県出身のイオアン山口末吉兄が斜古丹聖三者教会より肌身離さず守り遠して持ち帰ったものである。
 新会堂の鐘楼は、マルク下斗米伝教者によって設計された旧会堂のデザインを生かして、先人の努力をいつも忘れないように造られたものである。
 昭和26年、戦後の物資不足の時代に建てられた2代目の教会は、20数年の星霜を重ねて老朽化し、またこの頃、上武佐教会の信者の住宅が何軒か新築された。自分たちの家を新しくして教会が古いままで良いはずがない。神に対する畏敬が信徒の心を動かした。昭和52年、まず至聖所を建設しようということになり、同年12月に信者一同で基礎作りに着手した。52年春、建設資金の確保について役員会を開き種々検討した。その結果、至聖所だけでも300万円ほどの経費が必要となる。それならこの際、思い切って新しく教会を建立しようという決議となり、その予算として1300万円を計上した。資金面は献金と本会からの借入金で賄うことにした。建設委員長に菊地窄門兄(会計も担当)、委員には村上伝教者、執事長石井徳雄、佐藤進、池田明、工藤重美、長屋利夫、小森忠春の諸兄らを選出し、早速武佐教会信徒の寄付金集めにかかり、根室・斜里・釧路の信徒方に対して、村上伝教者、石井兄が直接出向いて協力を仰いだ。
 府主教庁には石井執事長が上京し、次いで村上伝教者が出向き、両人とも誠心誠意武佐教会の建立事情を府主教座下に説明、融資をお願い申し上げた。フェオドシイ府主教座下には、道東の寒村、しかも十数戸に過ぎぬ上武佐教会信徒の篤い信仰を嘉せられ、700万円の融資を快諾なされた。地元内外からの寄付金も9月1日の上棟式の前にほとんど集まった。
 新会堂の主体工事は、池田建設(セルギー池田士球)、内装は室内装飾の工藤(イオアン工藤忠)、塗装は根室の石井塗装店(執事長ジノン石井徳雄)がそれぞれあたり、ここにわずか十数戸の正教徒の結晶として、それも新築決定から半年以内の短期間で3代目教会が標津の大地に立派に誕生した。木造平屋建(亜鉛引綱板葺)、坪数49坪、総工事費は諸雑費を含み1500万円、会堂の外に集会場、調理室もあり、地方教会として非常に使い易いスペースの造りとなっている。なお、府主教庁からの融資は1年据え置きで5年間で完済している。


  

第16節 斜里生神女福音教会の成聖

 昭和54年9月23日(主日)、東日本主教教区セラフィム主教座下司祷、同教区ロマン大川神父、ワシリイ加藤長輔祭、札幌教会のキリール有原神父、管轄教会のペトル及川神父らの陪祷で成聖式が厳かに行われた。札幌から駆け付けた聖歌隊による四部合唱の聖歌は参祷する敬虔な信徒の心に響き、教会の鐘の音は道行く車と人を止め、秀峰斜里岳に抱かれた田園教会の一大盛事であった。成聖式には釧路・上武佐・札幌・小樽・苫小牧・清畠・上磯・函館、遠く中新田・仙台・東京からも多数の信徒が参祷した。
 斜里教会は前述したように大正4年9月28日、初代斜里原野教会が斜里原野西一線二十番地に建てられ、翌29日、セルギイ主教によって成聖された由緒ある教会である。斜里川の河川敷に建てられており、堤防工事のため昭和23年に現在地に移築されたもので、終戦後の物資不足の頃の移転建物であり、20数年の風雨のため荒廃甚だしく、さらに国道沿線に建つ正教会の会堂としても相応しくないとの声も高まり、また管轄の及川神父も再建を願っていたが、あまりにも戸数の少ない信徒にとって莫大な新築費用は大きな負担であり、教会再建には逡巡せざるを得なかった。
 だがその後、信徒がそのことで話し合った時、故イオシフ佐藤勘右衛門兄(尊父は初代教会を建てたパウエル勘吉兄)の夫人ジノビアみね姉が、「聖書に『天国に宝を積まなくてはならない』と教えているので、私が200万円を寄付するから、何としても父祖が血と汗で築き上げた斜里教会を無くしてはいけないよ、皆で頑張ろう」と言われた言葉は朴訥ながらも天啓であろうか。執事長セルギイ熊谷養作兄始め、居合わす信徒をいたく感激させ、教会を新築させなければならぬという不退転の決意が全員の心に漲った。その結果、十余戸の信徒が結束し、進んで相当額の寄付を申し出た。ことにフィリモン佐藤嘉一兄(尊父イサアク勘四郎兄も初代教会を建てた一人)からは大口150万円もの寄付があった。
 執事長から及川神父を通して府主教庁、諸教会の協力を得て(110万6000円の浄財が集まる)、斜里町美咲、国道244号線沿いに特異な田園教会として瀟洒な姿を現したのである。建築費総額862万8509円、木造平屋建(亜鉛引綱板葺)、総坪数31坪、その中に4坪の集会所、同坪数の調理場があり、田園教会としては至極便利な造りとなっている。施工業者は町内の河面組で5月初めに工事にかかり、8月末竣工している。
 当時の斜里教会の信徒戸数13戸、信徒数54名、執事長は熊谷養作兄(尊父は初代教会を建てた一人ペトル熊谷養助兄)である。先人が初代教会を築き、正教をこの斜里原野に根付かせたその偉業は、セルギイ養作兄始め、先人の子息らによって立派に継承され、この斜里教会(生神女福音教会)は永遠にその鐘声を秀峰斜里岳に向かって鳴り響かせることであろう。
 さて、及川神父は昭和55年3月29日、在釧19年で盛岡正教会へ赴任している。神父は現北上市出身で、イリネイ主教によって開かれた正教神学校の第2回卒業生である。卒後、伝教者として盛岡教会、34年に司祭に叙聖され、山田教会、一の関教会を経て36年に釧路教会へ赴任された。赴任後、聖堂の修理、現司祭館の改築に取り組み、貴重な『釧路ハリストス正教会略史』を残している。師の在任中、歴史的な日本正教会の自治独立期を迎え、その後、上武佐・斜里教会をも管轄した。東は根室、西は新得、北は網走・北見と、信徒戸数百戸以上、信徒400人を超す広大な牧野となっている。フェオドシイ府主教の第1回宣教5カ年計画(昭和49年から54年まで、テーマは『正教会における現状の教勢低迷の打開=内部見直しと刷新』)のもと、自ら自動車運転免許を取得し、近代的な宣教へと躍進を期待されていた。師は昭和45年4月、ウラジミル府主教座下に釧路聖神降誕聖堂で長司祭に昇叙されている。家庭的には不幸にも昭和45年1月にアンナ夫人を亡くされ、その後、師の御母堂が来釧されて師の身の回りの世話や子どもの面倒を見ておられた。
 現在、前橋正教会で活躍なさっている。及川神父の後任としてイオアン牧島純司祭が盛岡正教会より昭和55年3月25日、釧路に着任なさる。


  

第17節 イオアン牧島司祭

一 十勝の大地に新しい12人の正教徒誕まる

 昭和57年7月4日(日曜)、イオアン牧島神父により12人という多数の方々の洗礼式が執行された。主日聖体礼儀に先立ち、教会信者の見守る中、厳粛な、また白百合が一度に開花したような華やかさを秘めた洗礼式が行われた。立花家では次の通りである。
アニシヤ立花ミツ子、アントニイ尚義、以上ペトル立花一郎兄の妻と長男。アナスタシヤ立花ケイ子、マリヤ文恵、以上パウエル立花二郎兄の妻と長女。アグリピナ立花貴美子、ミノドラ由美子、マクシミリアン啓子、以上マルコ立花三男兄の妻、長女、長男であり、さらにルカ立花弘兄の妻と長女は、ユリアニヤ立花一枝、ドムニーナめぐみで、アンナ立花史子、アレキサンドル嗣夫、アントニイ尚美、以上はイヤコフ立花豪兄の妻と長男、次男である。また、イオアン坂本謙兄の妻・多喜子はエウドキヤの聖名で授洗された。このように多数の諸兄姉が一度に授洗されたことは釧路教会始まって以来の慶事であり、根室・標津教会のメトリカを見ても、このような記録は稀である。
立花家は祖父アニキタ宗三郎兄に始まり、父フィリップ一雄兄が択捉島紗那で福井神父により幼児洗礼を受け、母リュボウ登美も野付牛(北見)で内田神父によって授洗されている。2人に間に生まれた前記ペトル一郎兄、パウエル二郎兄は昭和5年にイオフ日比神父、マルコ三男兄は昭和10年にサワティ大川神父、ルカ弘兄は昭和13年にグリゴリイ小野神父、イヤコフ豪兄はメトリカに記載されていないが、本人の記憶から考えると、昭和26年にイアコフ猪狩神父(?)によって、それぞれ授洗された熱心な正教徒一家である。
 イオアン坂本謙兄の祖父ペトル岩男兄は八戸町出身で、明治30年代にアキラ晃、テイモン呈門、ニーナ仁那の諸兄姉を伴って来釧し、明治40年代には釧路教会の議友、議友長として教事に尽力され方である。アキラ坂本兄は現イオアン坂本謙兄の父君で、十勝新聞を経営し、惜しくも昭和12年4月に急逝され、夫人アンナたつ姉はテイモン坂本、ニーナ坂本に相談され、アキラ兄の死後、屋敷、工場跡地(西三条三丁目十八番地)を正教会に寄付している。旧帯広教会の住所は西三条三丁目二十番地である。現在、地番を調査しても判然としないが、イオアン坂本兄の話によると、教会は同敷地内といってもよく、すぐ隣に建っていたようである。テイモン坂本兄は、昭和54年より58年まで釧路教会の執事長を務められたニキタ坂本正勝兄の尊父であり、大正年間教務に尽くされ、その後、道央に出られたようである。ニーナ坂本姉は古くから教事に尽力し、マリモ学園の園長を務められ、昭和51年5月21日、釧路で永眠している。明治、大正、昭和を通して釧路教会を支えた家系である。なお、アンナ姉の寄付された土地と教会用地(地番十八の一、二十一の一)は、日本正教会財団が昭和29年民間に売却している。
 昭和57年7月4日、父祖4代にわたる信者が帯広に誕生したことは、幼児洗礼の徹底、家族全員の洗礼、また信徒以外娶り嫁ぐべからずという正教会の教えそのものであり、牧島神父の面目躍如たるものがある。
 これより先、牧島神父によって釧路と帯広地区の信徒を結ぶ架け橋が作られ、後述するように、月一回の帯広地区勉強会と帯広地区復活祭へとつながって行く。牧島神父の帯広地区への宣教の経緯を次に述べる。
 昭和55年7月、帯広のレオ青山兄(兄の父祖も函館教会の古い信徒である)の長男永君が釧路で牧島神父によってインノケンティの聖名で受洗し、56年12月24日、帯広のマルコ立花家に20数名の信徒が集まって降誕祭の家庭集会が行われ、明けて57年5月2日、帯広コミュニティセンターで復活祭の祈祷が献ぜられた。釧路からイオアン牧島神父、ニキタ坂本執事長、イアコフ星見誦経者、ペトル勝永、サムイル佐々木、アルセニイ山本の諸兄が、帯広からリュボウ立花姉始め18名の信徒が参加して盛大な復活祈祷祭が執り行われた。祈祷後のお祝いの懇親会において、聖公会のしきたり、また今後、帯広の集会をどう継続行くか等の話し合いがもたれた。この時、牧島神父から立花・坂本各家の家族洗礼について懇々とお話が合ったのであろう。同年7月4日、前述のように帯広の7家族12名が釧路で受洗する。その結果、帯広の信徒9戸、30名を超え、釧路教会の有力な、頼もしい一肢体となる。
 昭和59年5月13日にも釧路から牧島神父始め、信徒5名が来帯し、帯広の信徒とともに復活祭を祝っている。その後、昭和60年度公会で釧路に新任された大窪神父に引き継がれている。
 

二 二 釧路聖神降臨聖堂建立50周年祭

 この聖堂は昭和7年に当時大不況の最中にもかかわらず、信徒の熱意によって建てられ、セルギイ府主教によって成聖されたものである。
 釧路市内では近代的なビル建設や家屋の新築が進み、釧路の古を偲ばせる建物が一つずつ消えていく中で、正教徒の信仰の拠り所として、また道行く市民にビザンチン様式の白亜の建物として親しまれて来た教会も、50年の風雪に耐えて色褪せ、老朽化も進み、昨年(56年)は台風くずれの低気圧による暴風雨で聖堂の象徴ともいえる八端十字架が屋根の取り付け部分から倒れ落ちるというアクシデントにも見舞われた。
 一時、聖堂の建設計画を真剣に検討した時期もあったが、財政的負担が重く実現できなかった経緯もある。しかし、この聖堂の荒廃に対して当時の牧島神父、坂本執事長、信徒一同は、必要な補修工事を行い、先祖が残された信仰の拠り所として、また歴史的な重みを秘めた貴重な建物を子孫に立派に引き継ぐべきであると、衆議決定されたのである。
 当時、釧路聖神降臨聖堂は、社団法人建築学会著作の『日本近代建築総覧』に、「姿・形が良い」との理由で全国二千棟のリストの中に入り、また昭和57年に開かれた「私の好きなところ釧路展」では、増子正樹氏(市民展二科作家)が描いた同聖堂が釧路市長賞に選ばれたほどで、牧島神父は「ロシアの片田舎の素朴な美しい教会」を偲ばせるこの聖堂を、このままの姿で残すべきであると考えたのであろう。補修工事の内容は塗装、ほかに窓枠・堂壁及びすき間防止等で半永久的保存に耐え得るように施行された。50年の風雪に色褪せた教会も、当時の白亜の壁から落ち着いたクリーム色の美しい聖堂に生まれ変わった。ちなみに、補修費総額は182万2081円である。
 この聖堂が建立されてちょうど50年を迎え、補修整備も終了したことと併せて、釧路で1年を通して最も天候に恵まれるこの秋の好日を選んで、ささやかであるが50周年記念式典を開催したいという希望が全信徒の間に必然的に沸き上がった。
 昭和57年10月16、17日、50執念式典は連日の好天に恵まれ、厳粛・盛大に挙行された。東日本主教教区のセラフィム主教座下をはじめ、大川・及川長司祭、築茂司祭、加藤長輔祭の来会を賜り、16日徹夜祷、17日聖体礼儀が新装なった聖堂において執り行われた。この式典には、札幌・函館・苫小牧・武佐・斜里の各教会から多数の信徒が参祷された。セラフィム主教座下の説教の中で、「きれいになった聖堂において立派な聖体礼儀ができてとてもうれしい」という賛辞を賜り、また大川神父、加藤長輔祭から「聖堂の新築が随所で行われているが、すべて石造りになっている。このような木造りの聖堂はとても良いものですね」と言われ、「補修工事が立派に遂行され、感激がひとしお深い」と、ニキタ坂本執事長は『釧路正教会だより』第34号に記している。
 この年の釧路正教会の教勢は、信徒戸数64戸、信徒数247名である。
 執事長はニキタ坂本正勝、執事はペトル勝永巌、アルセニー山本昭吉、ウラシイ森谷栄喜、イアコフ星見定義、サムイル佐々木和雄、セルギイ五十嵐公蔵の諸兄である。

三 牧島神父の永眠

 盛教会管轄司祭イオアン牧島純師は、平成2年1月3日早朝に急逝された。享年63歳。埋葬式は盛教会において、6日朝9時からの聖体礼儀に続いて、東日本主教教区イオフ馬場長司祭、石巻正教会ワシリイ田口司祭、盛岡正教会石動司祭、函館正教会ニコライ築茂司祭らによって厳粛に執行された。釧路正教会から現執事長ペトル勝永、生前堂役を務めて可愛がられたワシリイ藤田、武佐正教会から伝教者パウエル、前執事長ジノン石井の諸兄姉らが取るものも取り合えず参祷した。
 牧島神父は大正15年に現足利市に生まれた。尊父は伝教者で、聖像画家でもあるパウエル牧島省三師である。牧島神父は昭和50年に永眠された尊父の遺骨とともに、埼玉県東松山市武蔵嵐山霊園に葬られている。
 師は昭和42年10月1日の主日に、モスクワ総主教庁ユヴェナリー主教座下によって、東京の駒込教会で司祭に叙聖されている。その後、上武佐教会に赴任され、昭和45年の日本正教会独立に際し、師の英断によって上武佐教会は日本正教会に帰属したのである。昭和46年に盛岡正教会へ赴任し、昭和55年3月15日、斜里・上武佐教会を管轄する道東の釧路教会へ着任された。
 師の業績についてはすでに記述したが、宣教活動に欠かすことのできない、現教会発行の『道東セミブロック便り』に触れぬ訳にはいかない。及川神父が離釧する1年前、時の執事長ニキタ坂本正勝兄が昭和54年7月、釧路教会の行事、近況を知らせるため、手書きの“青焼き”で『釧路教会だより』を発行した。それが9号まで続いた。牧島神父が着任された時、釧路教会は上武佐・斜里教会を管轄していたので各教会のニュースを載せ、教会間の交流を図るうえでもと、55年6月発行の10号から活字版として各教会へ配布するようになった。58年8月(42号)より内容を充実させて『釧路教会だより』となる。この発行には、イアコフ星見定義兄(57年、セラフィム主教座下が札幌へ巡回なさった時に誦経者に祝福された)の人知れぬ御苦労も忘れることができない。
 大窪神父の御着任後、『道東セミブロック便り』と名称が変わったが、昭和63年12月1日をもって発行百号を迎えた。
 「その歩みは遅くとも、かたつむり、良く鉄塔の高みを極む」は、牧島神父から寄せられたお祝いの文の末尾である。
 師は酒を愛し、その風格は明治の武士を思わせ、仏教を介しての説教や、あるいはテレビ、新聞の出来事にも及び、信仰の琴線に触れる独特のものがあった。師は昭和60年の公会を最後にして、8月に思い出多い道東より東北の盛教会へ転任、その地で永眠されたのである。