近代的な宣教活動と釧路正教会聖堂建立
第1節 ひっそりとイブの祈り、斜里たった3人のミニ礼拝
題名は、昭和60年12月25日の北海道新聞に載った記事の見出しである。内容は、「網走管内斜里町美咲の斜里ハリストス正教会で24日、2家族3人中心のクリスマスイブの祝いが行われた。(中略)この日午後6時からのイブの祝いは、釧路ハリストス正教会の大窪司祭と同教会の信者2人を迎えて行われたが、あいにくの猛吹雪で地元信者のうち集まれたのはすぐ近くの2家族3人だけ。大窪司祭が祭服に身をまとい香炉を振って祈りを始め、厳かな雰囲気で式を始めた。」という記事になっている。
24日、25日は斜里教会の降誕祭で、釧路から大窪神父のマイカーで勝永執事長、佐々木執事が随行し、24日午後1時半頃斜里に向かったが、弟子屈を過ぎる頃からチラチラと雪が降り、車が北上するに従い風が強くなり、猛吹雪となった。野上峠を越え、中斜里に入る頃には“視界ゼロ”となり、車の走行不能となる状況変化が断続的に繰り返された。神父はこの自然の猛威に毅然として立ち向かい、神の加護のもと無事斜里協会に到着できた。現地到着後、晩祷時間が迫っても誰一人見えず、そのうち教会に近い信徒が3人現れ、間もなく道新の記者が取材に来られた。
セルギイ熊谷執事長の語るところによると、斜里教会の信徒は教会を離れて此処彼処、数町あるいは半里、また里余を隔てて住んでおり、この猛吹雪では国道に出られず、おそらく参堂は不可能であろうとのことで、晩祷は予定通り行われ、首題の記事となったのである。翌日は前日とガラリと天候一変、快晴に恵まれ、22名の信徒が参堂して主の降誕を祝った。この年の斜里教会の教勢は9戸、36名である。
イオシフ大窪司祭は、昭和60年8月1日に牧島神父と代わり、東北の盛教会から着任され、初めて道東の冬将軍の猛吹雪の洗礼を受けられたのである。神父についてはまたの後日譚がある。
昭和61年1月23、24日、釧路教会において、仙台正教会からロマン大川神父を招請して聖歌練習会を行う予定であった。23日は午後1時から練習が始まる予定であったが、いくら待っても大川神父を迎えに行った大窪神父が見えられない。勝永執事長が斜里へ電話をしたが、迎えに行ったはずの大窪神父が斜里に着いていない。「大窪神父様、行方不明!!」と会場は一時騒然となった。
実は斜里方面は猛吹雪で列車が立ち往生し、大川神父は斜里で運転再開の釧路行き列車を待っておられた。大窪神父は前夜、回家祈祷で川湯へ泊まり、早朝、斜里の大川神父に「これから斜里まで迎えに行く」旨電話されたが、大川神父は「斜里方面は猛吹雪で列車も立ち往生しており迎えは不要、私は遅れるが列車で釧路へ行く」と断っており、その後、連絡が途絶えているとのことであった。
一方、大窪神父は車で斜里に向かったが中斜里付近で吹雪に遭い、道に迷って雪の吹き溜まりに車が突っ込み、走行不能となって付近の人家に駆け込み、斜里へ応援の電話をした。斜里教会の信徒も驚いて現地へ急行し、神父はその日、信徒の中島兄宅に泊まり、翌日午後1時頃無事に釧路教会へ帰着された。大川神父は前日、数時間遅れて午後7時から待ちかねていた釧路教会信徒に聖歌練習を指導された。
文明の進んだ20世紀においても、道東の冬将軍は車を止め、また春から夏にかけての濃霧も自然界の脅威である。
ここで改めて釧路正教会管轄区域を説明すると、斜里教会は釧路から往復231㎞、上武佐教会は往復196㎞である。大祭後の回家祈祷には、北は雄武町まで往復578㎞、西は新得町まで往復330㎞、東は根室まで往復246㎞の広大な区域であり、その間に信徒が散在している。幸い神父は車の運転がお出来になり年も若いが、その御苦労のほど如何ばかりであろうか。
何時までも神父のマイカーに甘えてばかりもいられない。神父の普通車では耐用度からも、また以上述べた過酷な気象条件にも耐えられない。かねてから強力な教会車の必要性を感じていた勝永執事長は、62年度信徒総会に教会車の購入を議題としてその必要性を訴えた。これは全員一致で可決され、三地区(釧路・上武佐・斜里)全信徒の拠金で三菱デリカ4WBXL2500㏄、四輪駆動、定員8名の新車(217万円)の購入となった。
これこそ近代的な宣教活動の強化であり、この車で帯広・女満別・斜里・上武佐の復活祭にも釧路の信徒を運び、釧路教会信徒、各地区信徒との交流を深めることにもつながっていく。
昭和61年3月13日(木曜)、19時より帯広地区第一回信徒勉強会が開かれる。釧路から大窪神父、ペトル勝永兄、地元からリュボウ立花姉を始め、立花家一族の家族、アンドレイ柏村兄、レオ青山兄等家族、また折よく札幌正教会の柏村執事長ご夫婦も見えられ、総勢19名の盛大な勉強会となる。
神父の準備された「信徒の心得」をビデオで見ることから始まり、それについて神父より説明がなされ、質疑があり、わずか2時間ほどの勉強会であったが、神父と帯広地区信者の心が神を通して完全に融合した有意義な集まりとなる。今後、毎月第二木曜日を帯広地区の勉強会とし、会場を帯広東コミュニティセンターの一室を充てることに定まる。これ以後、大窪神父在任中はもちろん、現田丸神父へと受け継がれ、これによって帯広地区信徒の信仰が温められ、親から子へと自然に受け継がれて行くことであろう。
しかしながら、釧路―帯広間121kmの行程を一人車を運転し、帰宅は深夜11時を過ぎ、また春から夏にかけて視界を遮る濃霧に苦しみ、冬は道路も判別できぬほどの猛吹雪に、神父の宣教への御苦労のほどが察せられる。
昭和61年5月8日、帯広東コミュニティセンターの一室で第一回の帯広地区復活祭の感謝祈祷が行われる。釧路から大窪神父、イアコフ星見誦経者夫婦、ペトル勝永兄、サムイル佐々木兄がバスで、また遠く札幌から柏村姉も来帯し、地元からリュボウ立花姉始め子どもを含めて約20名の信者が集まり、総勢30名近い賑やかな祈りの場となった。センターの一室に設けられた祭壇には復活の聖像、紅卵、アルトスが飾られ、質素ながらも和やかな、しかも荘厳な復活祭である。全員イコンの前で復活祭の感謝祈禱を献じ、ハリストス復活!! 実に復活!!
の力強い声が堂内に響き渡る。この日は午後7時から9時過ぎまでの復活祭で、お祝いの会食もわずかな時間であったが、帯広と釧路の信者の交流も深まり、信仰を通して固く結ばれて行く。当初、この復活祭を第一回と述べたが、古くは牧島神父の代の昭和57年、59年に帯広において復活祭が行われている。しかし、列車の時間に制約されて毎年と言う訳には行かない。大窪神父は翌年もレンタカーで釧路から多数の信徒を引き連れ、帯広で復活祭を祝っている。その後、この行事は田丸神父に引き継がれ、釧路教会の復活祭後に帯広で行われる定例行事となった。よって第一回復活祭と称した所以である。第二、第三回と帯広地区復活祭が定着するにつれ、帯広地区信者の発案で一泊二日の楽しい「帯広地区復活祭祈祷」となる。すなわち、2日目には釧路や武佐から参加した信徒と地元信者が十勝川河畔等でパークゴルフに興じ、相互の交流が一層深まっていく。
戦後、釧路教会が復興され、昭和27年に出原神父が来釧して以来、テモフェイ田崎神父、ペトル及川神父、イオアン牧島神父と続くが、帯広地区は神父による復活祭、降誕祭後の年一回ないし2回の回家祈祷のみであったようである。これは時間に制約される列車利用に頼らざるを得ない当時の交通事情によるものであろう。なお、冬の降誕祭には、帯広地区の信徒が釧路教会に参祷なさっている。
昭和61年8月10日(日曜)、道東の上武佐教会において(平生は木立に囲まれてひっそり建つ素朴で美しい教会である)、開教七十周年記念祭が盛大に行われた。第十五回東日本主教教区青年大会(昭和51年の第六回、同58年の第十二回の青年大会がこの地で開催されている)が、東北、北海道の青年正教徒を集めて7、8日と開催され、引き続き9日には北海道ブロック宣教委員会が開かれており、あたかも東日本主教教区の信仰がこの道東の辺地の教会に凝縮したかのようである。
10日午前10時、札幌正教会の有原長司祭司祷のもとに、仙台正教会の大川長司祭、加藤長輔祭、石巻正教会の松平司祭、盛岡正教会の及川長司祭、盛正教会の牧島司祭、管轄の大窪司祭、地元の村上伝教者、札幌正教会の高橋誦経者等、釧路正教会から応援に駆け付けた聖歌隊も加わり、祈祷、誦経、聖歌が渾然一体となり、盛大な聖体礼儀が執行された。参祷者も会堂に溢れるばかりで120余名を数えた。地元、斜里・釧路の信徒はもちろん、札幌・小樽・函館、遠く仙台・白河・東京からも多数参堂された。午後からは祝賀会が賑やかに行われた。祝賀会に先立ち、教会に貢献のあった方々の表彰が行われたが、その中に上武佐教会の草創者フィリップ伊藤繁喜兄のお孫さん(札幌在住のオリガ杉原伸子姉)の姿があった。
イグナティ加藤神父、モイセイ湊伝教者、パウエル小川(後の伝教者)、フィリップ伊藤とつながり、ハリストス正教会は根室・標津を経て武佐に定着し、駅逓の馬に揺られてロマン福井神父が武佐に巡教する。まさにこれが上武佐正教会のルーツである。大正初期、人跡未踏の武佐原野に移住が始まり、フィリップ伊藤兄によって教化された先人たちが、幾多の苦難や危機に直面しながらも篤信をもって乗り越え、信仰の灯を絶やすことなく、現在の上武佐教会の基礎をこの原野の大地にしっかりと根付かせたのである。
昭和60年10月12日、執事会で開教七十年を迎える翌年を一つの節目として、先人の偉業を偲び、改めて敬意と感謝を捧げるため七十周年記念祭を開催することが決まる。その後、信徒総会で可決され、同時に実行委員会が結成されて首題のごとく盛大な開教七十周年記念祭が行われた。この七十周年に当たり数々の記念事業が計画されたが、その一つとして記念史の発行が企画され、先人の苦闘の跡、さらに地域住民と教会の過去の流れを後世に残すため、B5版33頁の七十周年史を作成した。 実行委員は執事長シメオン佐藤進、執事ジノン石井徳雄、同ミロン長屋利夫、同イリヤ工藤重美、同イオアン菊地道夫、伝教者パウエル村上賢次、セルギイ小森堯の諸兄であり、記念史の編集委員長は菊地道夫兄である。当時の管轄司祭はイオシフ大窪神父であり、上武佐教会の教勢は28戸、113名である。
東日本主教教区セラフィム主教座下には、この年7月、御母堂の病気看病のため帰米され、上武佐教会七十周年記念祭には臨席されなかった。なお、主教座下には大窪神父が釧路着任の年の10月5、6、7日、上武佐教会、斜里協会、釧路教会を親しく御巡回なされた。
現聖堂は昭和7年の大不況の最中に、先人たちの篤い信仰が聖神降臨聖堂と凝縮したものであるが、その後、五十数年の星霜を経て損傷甚だしく、その間幾度となく大修繕を余儀なくされた。聖堂の再建を検討された時期もあったが、財政的に再建もならず、昭和57年に牧島神父の代に五十周年記念祭が行われたが、その際も修繕工事に終わる経緯となった。
聖堂は正教信徒の信仰生活の中心である。その聖堂が50数年の風雪に耐え、最近とみに老朽化が目に付くようになり、執事会(執事長はペトル勝永巌兄)の中より聖堂の新築を検討する「聖堂建立準備委員会」が発足し、その調査の結果、土台部分の損傷が特に酷く、聖堂の新築が緊急事態であることが執事会の結論となった。
以上の次第で急遽、昭和63年4月10日に臨時総会が開かれ、全員一致で聖堂建築の件が承認された。その際、聖堂施工の目途を釧路教会百周年に当たる本年から4年後の昭和67年に置くことが決まり、同時にこの記念すべき開教百周年に新聖堂を先人に献じ、先人の偉業を偲び、その年を一つの節目として開教百周祭を祝うことに決定した。さらに釧路教会の過去百年を振り返り、これを記録にとどめて後の世代に伝えるために百年史の編纂も全員一致で決まる。
この後、直ちに聖堂建立、百年祭関係委員が次のように選出される。
〇聖堂建立(調査・設置場所、敷地の検討・設計者、業者設定等)
委員長 アルセニイ 山本昭吉
会計 パンテレイモン 三井田弘之
委員 ハリサンプ 藤田敏彰
委員 ダミアン 勝又 博
〇開教百年祭(式典・記念品・祝賀会・百年史編纂等)
委員長 サムイル 佐々木和雄
委員 ニコライ 笠原静夫
委員 マリヤ 金田カツ子
委員 ぺラギヤ 千葉 静
委員 ペトル 勝永 巌
昭和63年度の信徒総会では、建設委員より工期は昭和66年9月着工、同67年8月完成(いずれも予定)、構造は鉄骨サイデング構造、建築面積は床面積52坪程度(現在約22坪)、さらにこれに対する資金の収支予算書を次の通り提案され、いずれも可決された。信徒献金2千万円は、信徒戸数61戸であるが、諸般の事情を考慮し40戸として計算されたものである。
支出 建築費 3000万円
式典費(含百年祭) 250万円
事務印刷費 100万円
予備費 50万円
収入 信徒献金 2000万円
聖堂建設基金 500万円
借金(東日本特別基金) 400万円
全国募金 500万円
計 支出、収入とも 3400万円
昭和63年11月、釧路正教会田丸神父、建設委員名で、目標全額2千万円の各戸献金(63年11月~67年12月)の要請があり、神父始め全信徒は一丸となり「新聖堂建設」に向かって邁進する。
聖堂を建設することは信仰生活の上で最大の事業であり、釧路教会にとって3代目の聖堂建立は歴史的な偉業である。これを達成するために大窪神父は信徒を鼓舞し、道東地区の人口から言っても一握りの数に過ぎない牧群を神の命ずるところに導かれた。
師は昭和28年4月に仙台市に生まれ、50年4月、東北学院大学法学部卒業と同時に正教神学院(府主教フェオドシイ主教座下により開院)に入学、54年卒業。7月に司祭に叙聖されて東北の盛正教会へ赴任、60年に釧路正教会に迎えられている。63年の公会で、在釧わずか3年で横浜正教会に転任された。正教神学校の教授就任のためで、これもやむを得ないことであろう。後任として前橋教会からイアコフ田丸博久神父が63年8月5日に釧路教会へ赴任し、この事業を引き継がれた。今後、新聖堂建立に新神父・信徒一体となって取り組むことになる。
釧路教会の執事長は勝永巌兄で、信徒戸数61戸、信徒250名、上武佐教会・伝教者はパウエル村上賢次師、執事長は佐藤進兄、信徒戸数28戸、信徒120名、斜里教会・執事長は佐藤忠雄兄で、信徒戸数9戸、信徒34名であり、道東の信徒戸数計98戸、信徒数361名である。
牧島神父の在任中、道東信徒各家庭からパニヒダ(永眠者の記憶祈祷)を依頼された時、それまで個々に執行していたことから先人の記憶をまとめようと調査に着手されたが、志半ばで盛正教会へ転任となった。大窪神父はその志を継ぎ、各家庭から先祖の記憶を集め、メトリカ(信徒記録簿)を調査されて昭和61年の5月から釧路教会で聖体礼儀後、月例の各家庭永眠者のパニヒダが行われるようになった。釧路教会では原則として第一日曜の聖体礼儀後に執り行われ、糖飯を作る家庭も1月から12月までその氏名が発表されている。
仏教では父祖の命日には僧侶が必ず檀家回りをして供養している。しかし、正教では神父の管轄範囲が広く、大祭後の年2回の回家祈祷でも、1回の回家祈禱に2ケ月はかかる。仏教のような訳にはいかない。正教徒として先祖の永眠月に、教会で神父始め、多数の信徒によってパニヒダが行われることはうれしいことである。
平成2年7月21日、根室市清隆町の民宿“たらく”に、根室・標津・武佐・弟子屈・標茶・釧路各地区の信徒32名が集まる。
2階の15畳2間を通した会場の正面に簡素な祭壇が設けられ、上武佐教会の由緒あるイコン、七灯燭台、両側に花を生けた花瓶、紅卵、糖飯も供えられ、片側に白菊、白百合をふんだんに盛った献花が配置されている。田丸神父、村上伝教者によって18時よりパニヒダが執行される。祈祷・誦経・聖歌が献じられ、先人の神品・伝教者・信徒の聖名が記憶される。いずれも道東の色丹・根室・武佐を司牧して現在の上武佐・斜里・釧路教会へつながる神品・伝教者、またこれら教会を興し支えて来た先人の方々である。集まる信徒30余名、民宿の陋屋の会場ながら、いかなる立派な聖堂で行われるパニヒダにも劣らず厳粛かつ盛大であり、先人と参祷者を神を通して強く結びつけるものであった。パニヒダを献じた後、上武佐教会の功労者・故コスマ狩野勉兄、現ジノン石井兄が田丸神父より感謝状を授与され、皆の祝福を受ける。
明けて22日9時過ぎ、発足墓地へ向かう。途中松本町の旧教会跡地に車を停め、エウフィミイ狩野廣井老兄(ロギン狩野兄の子息)より説明を受ける。ここに在った教会は、イオアキム岡伝次郎兄の実兄である岡伊之助氏によって、明治29年に建てられ、大正中期に姿を消したが、道東信徒正教信仰の原点とも言うべき会堂であった。
9時半過ぎに発足墓地(現西浜)に着く。古老の話によると、十年前は草がぼうぼうとして古い信徒の墓がわからなかったそうであるが、今はきれいに整地されて近代的な墓地に生まれ変わっている。この墓地は明治12年に設営されたものであり、教会のメトリカ(信者記録簿)に最初に出てくるのは、明治26年9月、パウエル戸田重直兄(メトリカに洗礼第一号の氏名となり、後に和田村や色丹の戸長を務める)の長男ニコライ大助兄の埋葬で、ニコライ主教・掌院セルギイ・イグナティ加藤師がこの墓地でリティアを献じた頃には、正教徒の墓標は13基であった。その後、墓標は何十と増えたのであろうが、今は朽ち果てて無く、アガヒヤ戸田姉(パウエル重直兄の母堂、「明治39年重直建之(これをたつ)」と記されている)の墓碑、左隣は土に埋もれた墓石で氏名不詳、右隣は傾きかけているが、イレナ井上サキ姉(和田士族シメオン井上兄の母堂)の墓石、離れてワリシイ狩野廣業兄(ロギンの尊父、明治33年12月永眠)等、明治時代の墓はわずか4基ほど残っているに過ぎない。当時の正教徒の墓は木の十字架がほとんどで、墓碑は稀であったのであろう。ロギン狩野御夫婦、カルプ狩野御夫婦の墓は比較的新しく立派であり、久下家(初代、和田士族コスマ久下兄一家)の墓も建て替えられている。
一墓一墓に花を供え、神父がリティアを献じ、皆で永遠の記憶を歌唱する。幸い雨は降らなかったが、空は曇り、草は露で揺れている。不思議なことに墓石はみな和田に入植した士族のものである。生前辛苦をなめ合った和田の人々が死後も肩を寄せ合っているのであろうか。
一人の老信徒がロギン狩野兄の墓前で七言絶句を吟じた。
驚き見る先えい(文字なし)目前に存す / 宿意方(まさ)に足りて思(おもい)懸懸たり / 道東の正教初めて此に興り / 相伝えて綿綿百年を超ゆ
今回の総パニヒダは、ニコライ主教が明治31年、根室のこの地でリティアを献じて以来92年ぶりのことである。今後、いつまでも信徒に継承されて行くことであろう。なお、参祷した32名のうち、父祖が信者であった未信者の方が4名も参加している。
今回の根室地区総パニヒダは、平成2年度上武佐正教会信徒総会時に、管轄司祭田丸神父の提言により全会一致で決定した行事である。上武佐教会は、パウエル村上伝教者が教会を守っており、執事長はシメオン佐藤進兄である。
平成2年2月15日、府主教フェオドシイ座下は小野神父、辻永輔祭を従えて、13時5分、道東女満別空港の大地に尊貴なお姿を現し、釧路教会の田丸神父、上武佐教会の村上伝教者、根室のジノン石井、釧路のダミアン勝又、地元のマカリイ奥谷、マイケル片田夫妻、シメオン田中諸兄姉の出迎えを受けて、諸兄姉に降福を賜る。昼食後、直ちに斜里教会に向かわれ、府主教座下司祷で地元信者十名とともに感謝祈祷を献じ、「クリスチャンの本分」と題して説教をなされた後、信者一人ひとりに記念の十字架を手渡された。座下には十数年前の斜里教会巡回時のことを思い出されて懇談にも花が咲き、「教会がその本来の使命を果たし、信者それぞれが教会で受ける恵みを正に実感できる時、斜里教会はさらに発展を遂げることができるでしょう」と励ましの言葉を贈られた。
その後、網走のオホーツク荘で北見・女満別の信者9名が座下を囲んで夕食懇談会を開いた。席上シメオン田中兄等から「網走には昭和初期まで教会があり、大正年間には北網地区信徒戸数60数戸、信徒数200名を超え、釧路に匹敵するほどの教勢を誇っていたが、現在は十戸ほどに過ぎない。大祭後には釧路から田丸神父が回家祈祷に来られ、復活祭には釧路・上武佐・斜里教会の有志が神父とともに女満別に集まり、復活祭祈祷が行われている」等の説明があった。
16日、上武佐教会へ向かう途中、標津へ寄り北方領土資料館を見学なさる。標津は上武佐教会発祥の地である。資料館の望遠鏡に浮かんで見える国後島は、イグナティ加藤、ロマン福井神父が北海の怒涛を冒して巡教に渡った島であり、座下の脳裏にもそれらのことが去来したことと思う。
12時、上武佐教会へ到着。地元22名の信徒ともに感謝祈禱が献ぜられ、続いて主教座下には「痛恨の心」と題して、痛恨機密で勇気をもって自分の罪を告白し、クリスチャンとして御聖体をいただいて強く生きるための導きを得ることの大切さを説かれた。昼食懇談会の折には信者宅で朝搾ったばかりの牛乳を召しあがり、座下にはその美味に感動されたようである。
17日(土曜)、釧路教会では新聖堂建設委員会諸兄と昼食をともにされた後、現聖堂、新聖堂建設予定地、教会敷地を視察、聖堂建設計画の説明を受け、新聖堂建設に神の恩寵の多からんことを祈られた。前晩祷は主教座下御臨席のもとで随行の小野神父によって執行された。
18日。主日の聖体礼儀は府主教座下司祷、田丸、小野神父、辻永輔祭によって行われ、一人ひとりに銀の十字架が贈られた。釧路地区の信徒にとって、府主教の領聖、十字架接吻に何度接し得るであろうか。初めての信者もおったであろう。信者の感激一入深いものがあった。詠隊による聖歌は四調音ではなかったが、信者一人ひとりの信仰の灯、感激の心が胸中からほとばしり出た“一つ節”の聖歌である。座下の御耳に何と響いたことであろう。この日は“審判の日”であったので、座下は主日福音に沿い、クリスチャンの生活の在るべき姿について説教なさった。聖体礼儀後、信徒会館で昼食をともにしながら座談会が設けられた。
府主教座下には、第一次(1974~1979)、第二次(1979~1984)、第三次宣教計画の前半(1984~1989)の概要について、例題を挙げて平易に実施状況を説明され、第三次宣教計画十か年の後半期五か年(1989~1994)の課題、「社会の必要に応えて具体的に貢献していく教会=積極的に社会に入って行き活動する教会となる」に取り組むに当たって福祉活動を取り上げ、教団に福祉委員会、福祉・慈善事業推進特別基金を設置し、将来、関東に老人福祉施設(特別養護老人施設を含む)を一か所開設したいと抱負を語られた。なお、福祉についてその原点、現状について微に入りかつ平易な説明があった。特に座下がこの時、力を込めて語られ呼びかけた次の2件は、信徒に深い感銘と共感を与えた。
一 個人あるいは家族の協力で、私たちがクリスチャンとして何ができるか。
一 自分が属す教会として、何が貢献できるか。
話題が本題より外れるが、平成元年11月3~5日、東京復活大聖堂を主会場として日本正教会聖自治独立二十周年記念式典が盛大に開催された。2日目の4日に宣教シンポジウム全体会議が開催され、「福祉委員会」と「福祉・慈善事業推進特別基金」の設置が全会一致で承認されている。その後、平成2年6月に第一回福祉委員会が開かれ、回を重ねて平成3年1月の第六回福祉準備委員会において、横浜正教会のイオシフ大窪神父が福祉委員会新委員長に就任された。師は昭和63年の公会で釧路より横浜正教会へ転任された神父である。
大窪神父の在釧中は教団の第三次宣教十か年計画の前半で、「具体的に社会に貢献する形ある成果を生み出す」が宣教計画の柱になっており、昭和61年10月、初めて釧路教会でチャリティー・バザーが開かれ、主教座下の提唱する“福祉”に、ささやかながらも応えた形となったことは、福祉委員会新委員長となった師にちなんで懐かしい思い出である。
すなわちこの時、釧路・上武佐・斜里教会が一丸となり、信者の家庭に眠る不用品を教会に集め、あるいは武佐・斜里より新鮮な馬鈴薯、とうきび、かぼちゃ、牛乳等が所狭しとばかり運び込まれ、多数の市民に喜ばれる盛大なチャリティー・バザーとなった。ほとんど徹夜で惣菜やケーキを作った婦人会(会長・マリヤ金田カツ子)諸姉の奉仕も忘れることができない。その後、チャリティー・バザーは教会の恒例行事となり、その益金はマリモ学院(養護施設)、釧路市社会福祉協議会、北海道新聞社福祉振興基金等に贈られている。
本題より大分脇道にそれたが、府主教座下には18日午後6時に帯広に着き、“はげ天”で地区信者20名らが催す夕食懇談会に臨まれ、教団の福祉活動に向けての話を始め、多面にわたり懇談に花を咲かせた。翌19日、主教座下には4泊5日にわたる道東巡回の旅を終え機中の人となる。
今回、府主教座下の全行程を、仕事を休んで同行された釧路教会の宣教委員ダミアン勝又、帯広を除いた行程を座下に随伴された上武佐教会のパウエル村上伝教者、ジノン石井兄らの教会に捧げる信仰と情熱は、座下を御満足させたに違いない。なお、府主教座下は帰京後、パウエル村上賢次伝教者に特別製台付記念十字架とステハリ(祭服)を下賜なされたことを付記する。
帯広に復活大祭祈禱、信徒勉強会が定着したことは前述したが、その後、北網地区にもこれが及ぶことになる。網走正教会の発祥は帯広より早く、会堂もパウエル小川伝教者が昭和5年に離網するまで実存し、歴史的にも帯広の先輩にあたる。
北網地区初めての復活祭祈禱集会は、女満別湖畔“湖南荘”で昭和63年4月16日、午後6時から9時まで日帰りで開催されている。大窪神父が横浜正教会へ転任する年である。この時は神父はじめ、釧路・上武佐・斜里の信徒が参加し、地元からシメオン田中良平、マイケル片田常義、端野町からシメオン向井聖一諸兄の御夫婦ら十名が集まり、わずかな時間ながらも道東信徒が信仰を通して交流を深めている。シメオン田中兄、ダリヤ片田ケイ姉は、網走正教会創立に尽力したダニイル田中千松兄の子女であり、シメオン向井兄は、前述したように明治以来の篤信な家系の末裔である。祭壇に掲置されたイコンは、網走正教会開設以来、正教の盛衰をも守り続けてきた由緒あるイコンである。正に明治・大正・昭和と時代を超越して父祖の培った霊糧が、脈々と“湖南荘”の質素な祈りの場に伝わっていたに違いない。
田丸神父が赴任してからも大窪神父の意志を継ぎ、この北網地区復活大祭祈禱が恒例行事となる。一泊二日の行程の時には、前日は女満別で、翌日は斜里教会で復活大祭を祝っている。第三回の北網地区復活大祭祈祷が平成2年4月21日に行われた時、田丸神父から「北見地区信徒勉強会(集会)」が提案された。隔月第四木曜日をその日と定め、第一回は平成2年8月23日に”湖南荘”で開催され、以来、継続宣教事業となる。わずか10名前後の信徒勉強会であるが、これを通して彼らの信仰が温められ、励まされ、世代交代による信仰が途絶えることなく永く伝わっていくことであろう。
だが、神父にとっては肉体的な重労働である。釧路から車で阿寒・阿寒湖畔・津別・美幌を経由して女満別まで往復300km余りの距離である。午後7時から2時間の「信徒勉強会」に出席し、多忙の身では一泊もままならず、帰宅は翌日の深夜になることが多い。
津別を離れると阿寒湖畔まで人家の灯火が見られない。春から夏にかけて標高420mの神秘な湖から押し寄せて来るのであろうか、濃霧が車の視界を遮り、冬は道を舞う吹雪に悩まされる。湖畔から阿寒町まではどこまでも続く原始林である。昔、神父が馬に揺られて湿地の泥濘に立ち往生し、あるいは熊の咆哮におびえ、昼なお暗い密林の一本道を通る…我々には想像すらできない伝道の旅を続けたことであろうが、文明の利器に恵まれた現代の聖職者の道もまた険しい。
現在、北網地区には網走正教会開設以来、正教を継承している信徒は前述の通りであるが、80年の永い星霜、その間、多数信徒の去来、それによる正教の栄枯盛衰はやむを得ぬことであろうが、一時、200名余りの信徒を数えた網走地区の衰退には、ただただ無量の感を覚える。
そもそも開教当初は、網走町の信徒もわずか12戸、24名に過ぎなかった。その後、近隣の小清水・斜里・野付牛(現北見)・常呂・湧別・滝ノ上・興部と教勢が伸び、オホーツク沿岸にかけて140kmに及ぶ一衣帯水の長大な教区となっている。セルギイ主教が道東を巡回なされた明治42年には、斜里・野付牛・湧別・紋別・上興部にも信徒が散在しており、この時の信徒は22戸、49名に達している。大正4年に斜里に教会が建てられ(大正末期斜里教会として独立)、大正15年にセルギイ大主教が名寄経由で道東を巡回された経路は、上興部・紋別・滝ノ上・瀬戸瀬・野付牛・網走・斜里・小清水である。その時の教勢は信徒46戸、237名(うち斜里は16戸、96名)である。 これに先立って大正4年の公会において、札幌教区が広大なため、旭川に新教区が創設された際、興部・渚滑・紋別・滝ノ上地区が一時旭川教区に包含されたが、大正12年に岩間司祭が札幌を兼任し、紋別地区は再び釧路教区に復帰した経緯がある。昭和10年、釧路教区が一時、札幌教会のイアコフ猪狩神父の臨時管轄となったが(釧路教会の伝教者はマルク菊池長雄師)、この年の公会に紋別地区の信徒等が次のような請願を提出している。
「小生等従来釧路正教会管轄なるも遠路のため汽車便悪しく総てに不便に御座候條札幌正教会管轄に移転され度此の段連名にて御願申上候」。信徒代表として5名の氏名が挙がっている。みな明治以来の篤信な信徒である。
紋別郡中湧別 郡司龍吉
同 沼ノ上 昭夫
同 滝ノ上 武田良三郎(キリイル)
同 鳥居欣助 (パウエル)
同 紋別町 遠藤百次 (ペートル)
昭和初期、滝ノ上村に住んでいたアキラ厨川(教員)、中湧別の郡司兄らは道央に転住している。彼らの住む地は釧路からも、また札幌からもあまりに遠く、宣教上の死角となったのであろう。終戦後、彼らの後裔は道東信徒の名簿には無い。
これと事情を異にするが、昭和9年に日比神父が道東を巡回なされた時、斜里郡小清水に在住していたミハイル鈴木、ミナ佐藤、アガフ伊藤の諸兄その他古い信徒一族の名も今は無い。同信の信徒の少ない地で、また世代交代する中で独り堅信を持ち続けることは難しい。
これらのことを考えると、帯広地区、北網地区の復活大祭祈禱、信徒勉強会(集会)が誕生したことは有意義な素晴らしいことである。これによって両地区信徒の信仰が励まされ、温められ、かつ育まれて行くことであろう。
なお現在、前述の向井、田中、片田家のほかに、北見に4戸、網走に1戸、雄武、紋別に各1戸の信者が存在しているに過ぎない。
だが、北網地区の信徒減少は、あながちこの地区ばかりではない。根室、帯広地区にしてもしかり、管轄教会を擁する釧路地区とてその範疇に入らざるを得ない。信徒の移動、世代交代、神品不在も見逃すことのできない要因であるが、第二次世界大戦下の無謀とも言える思想の抑圧がその最たるものであろう。
釧路正教会3度目の聖堂新築計画は、昭和62年9月、管轄司祭イオシフ大窪望神父により招集された執事会の議題として討議され、聖堂新築を検討する「聖堂建設準備委員会」(アルセニイ山本昭吉、ハリサンプ藤田敏彰、ダミアン勝又博の諸兄)を発足させ、堂齢56年に達した聖堂の現状を調査することから始まり、63年1月の執事会、4月の臨時信徒総会、6月の定期信徒総会の決議を経て、釧路正教会全信徒の総意と結実する。この後、「聖堂建設準備委員会」は新たにパンテレイモン三井田弘之兄を加え、「聖堂建設委員会」として発足し、執事会とともに後記の実行計画素案をまとめて始動する。
第一期 資金計画立案・実施・特別会計の設定・他教会聖堂の調査と資料収集。
第二期 新聖堂の規模・構造・建立位置の検討・現聖堂の処置。
第三期 新聖堂の設計者及び建築業者の選定・聖器物等の検討と購入。
この計画素案は「聖堂建設委員会」でさらに肉付けし、「新聖堂建築工事日程表」を作り、6月より境内地の実測(東邦コンサルタントKK)、他教会聖堂(盛岡・石巻・金成)の見学と資料の収集等が始まる。
昭和63年度全国通常公会(7月)で、大窪神父は後任の田丸神父に後事一切を託し、横浜正教会へ転任(8月)される。
田丸神父着任早々の9月、道内諸聖堂(札幌・函館・上磯・苫小牧)の見学を終え、10月より目標額2千万円の内部募金活動に入る。この募金は神父の回家祈祷時に執事、建設委員が随行し、北は雄武、西は新得、東は根室に至る広大な牧野に点在する信徒を個別に訪問して行われ、平成元年3月には応募額1990万円に達し、一応の目途が付き、新聖堂の規模・構造・建立位置も決まり、いよいよ設計の段階となった。設計者は札幌正教会信徒のアレキサンドル小野正司兄にお願いすることにした。兄は株式会社石川設計の一級建築士で、上磯昇天聖堂、札幌正教会開教百年記念堂の設計者である。
3月5日、小野兄に来会を願い、釧路教会のことをつぶさに説明し、釧路正教会として正式に新聖堂の設計をお願いし快諾を得る。兄はその後、度々来会し、新聖堂建立に尽力くださる。
5月9日、これらおよそ1年間にわたる準備経過をまとめ、釧路正教会新聖堂建設に関する報告書として府主教フェオドシイ座下に提出。次いで6月1日に「釧路ハリストス正教会新聖堂建設請願書」を管轄司祭田丸博久、執事長勝水巌、三井田弘之、千葉静、佐々木和雄、藤田敏彰、金田カツ子、勝又博の連名で提出。府主教庁会議の承認(7月18日)を得る。
このように順調に進んでいた建立計画も、この年4月に発生した消費税に加え、経済の高度成長は建設資材、人件費の高騰を呼び、さらに小野兄の要請による建設予定地のボーリング調査(10月、三立技研)から地耐力の劣悪が判明し、建設費の膨らみが懸念され、以後、資金確保に苦境の道を歩むことになる。
平成2年2月、府主教フェオドシイ座下の道東御巡回があり、釧路教会の現状と聖堂建立に関わる一連の状況を説明申し上げる。
4月に小野兄より聖堂新築概算見積書が届く。それは懸念していた通り、杭工事等が加わり、4360万円(含消費税)であった。
折から5月8日、東日本主教教区理事会が仙台教会で開催するとの通達があり(神品理事・田丸神父、信徒理事・勝永巌が出席)、その際、御臨席の府主教座下に接見を願い、次のような事情を申し上げ、資金繰りについて御援助のお願いをすることになった。
一 府主教座下が釧路御巡回時の建設費は原案の3千万円である。
二 4月28日付の工事費見積額は4230万円、消費税加算額で4360万円となる。
三 建設費上昇の原因は、消費税、建築資材及び人件費の高騰による。
四 現状から見た建築費の上限は4千万円(自教会調達は借入金を考慮して3200万円、全国募金800万円を含む)である。
この件に関する府主教座下の御聖慮は(要旨)、一、全国募金の額については認可する。しかし、大聖堂補修工事の全国募金と時期が重なり、募金額の不足も考えられるので、ミッションより1千万円を上限とする資金貸し出しも併せて考える。二、もう一件の全国募金請願が出る模様であるが、釧路を優先する(いずれも口頭)等であった。
さらに6月23日の理事会で、府主教座下は釧路教会の事情をお汲み取りのうえ、東日本特別基金より前記1千万円の下げ渡しを諮られ、翌24日の東日本主教教区通常公会で下げ渡しの決議となった。
しかし、1千万円の下げ渡し金があったものの、9月末の内部資金・2630万円を加えても概算見積額4200万円に達せず、聖堂保持上欠くべからざる部分を除いて見積額の圧縮を図ったが、第二次見積額は3830万円(消費税を除く)であった。委員会は内部募金の状況から、内部募金の上積みのみでは及ばぬと判断し、12月に再度全国募金(イコン500万円を含む700万円)の請願を提出したが、この請願は教区募金より1千万円の下げ渡しを理由に却下となった。平成3年1月18日、資金繰りに窮した当教会は府主教座下に以下の願い書を呈上した。
「……教団及びロシア教会の事情を理解いたしましたので、釧路正教会の全国募金のお願いは取り下げます。しかし、釧路正教会開教百年を迎える年を間近に控えながら、年を追うごとに過疎の進む道東の状態、そして北方領土の回帰の光が見え始めたことにより、千島四島と釧路地区との交流の時機が近い将来にあること等を思う時、新聖堂の建立は必須な条件であり、今の時機を逸しては聖堂の建て替えはさらに至難となることも考えられます。(中略)新聖堂建立のため、なお一層の内部募金の上積みに努力を重ねるとともに、教会信徒一人ひとり、所縁の兄弟姉妹、親戚等に個人的に募金をお願いして行きたく存じておりますので、内部募金に準じるものとして御理解くださいますようお願い申し上げます……」。
この願い書の提出より直ちに募金を開始する。平成3年5月、新聖堂成聖式を平成4年9月と予定し、婦人部は聖堂内備品、アナロイ台覆、凱旋旗の製作縫合を始める。奉仕の方々を列挙する。ワルワラ金田万里子・ぺラギヤ千葉静・マリア金田カツ子・ニーナ大竹妙子・ルキア勝又美奈子・アンナ勝永幸子・マリア三井田菊枝・エウドキヤ佐々木ミチ子・フェクラ勝永芳江・マトロナ山本照子・クセニヤ前田信子の諸姉である。
成聖式当日、釧路教会の信徒の現状では四調音による聖歌は無理で、止むなく単音による聖歌と決まる。大阪正教会のエカテリーナ加藤先生に成聖式の単音聖歌譜の作成を依頼した。加藤先生によって出来上がった聖歌譜は札幌正教会の有原神父夫人・マリナ敬姉が一部手直しをしてくださった。これによって、目下、釧路の信徒姉は、フェオドラ藤田澄子姉、エレナ笠原茂子姉を中心に、力を合わせて猛練習中である。なお、成聖式当日の聖歌の献祷を札幌・函館正教会の信徒にもお願いしている。道内三教会信徒による聖歌は友情の証であり、素晴らしいハーモニーとなって新装なった堂内に響き渡ることであろう。
ここにエカテリーナ加藤姉、マリナ有原姉に深甚なる謝辞を申し上げたい。またエレナ笠原姉の楽譜製本に対する人知れぬ奉仕も忘れることができない。
聖堂建設委員会も設計者と会合を持ちながら、新聖堂デザイン、図面の検討を急ぎ、6月に「釧路ハリストス正教会新聖堂デザイン及び図面に関する許可願い」を教団に提出、主教座下の祝福を戴く。その後、設計者の指示に従い、建設業者の選定・電波障害調査・工事に必要な隣接地の借り入れ・入札と多忙な日を送る。この間、釧路正教会所縁の教会、信徒より続々と励ましの御言葉、献金が寄せられ、平成4年5月末、およそ5千万円の資金となる。平成4年4月5日、設計者アレキサンドル小野兄の来会をいただき、以下の通り工程が決まり、新聖堂建立の槌音が響くことになる。
一 聖堂建立地 釧路市富士見2丁目14の1、15の1
一 聖堂の構造及び規模 木造一部鉄骨・サイデング、銅板葺平屋建・50坪
一 同屋の施工業者 加納工務店KK.(釧路)
一 新築聖堂基礎成聖式 平成4年4月17日午前10時
一 工期 平成4年4月11日から8月31日まで
一 引き渡し 完成後10日以内
総工費はイコノスタス、照明器具を含め、およそ5千万円の見込み。
顧みれば、この厳しい道東の地に生活を営み、信仰の灯を絶やさず、かの昭和7年の大不況の最中に聖堂を建立し、今、釧路正教会開教百年と言う節目の年を迎え、以後に続く正教未来の年との狭間に、神恩により生を享けている私たち信徒に、贈り物として遺してくださった過去百年を生きた先人たちの偉業を偲ぶ時、私たちもまた、後世に生きる信徒に、先人に倣い、新しい聖堂を贈ることが義務と思い、聖堂新築という大事業を志したのである。
来る9月20日の府主教座下司祷の成聖式が待ち遠しい。