第2章 根室正教会の成立
第1節 小松司祭初めて根室を訪れる

① 小松司祭全道を管轄する

 ティト小松韜蔵師は、明治15年の公会で司祭に選出、叙聖されている。任地は函館であるが、同年の正教会公会議事録によると、師の管轄は道内の函館・有川(現・上磯)・七重、福山・寿都・小樽・札幌、内地は主として秋田県下の花輪・十二所・毛馬内・荒川・大湯・大館・曲田、即ち北海道の西部海岸から道央、本州の日本海岸北部まで、更に翌16年には、久保田(現・秋田)・雄勝・千北地方まで管轄している。『日本正教会伝道誌』の編者石川喜三郎師は、
「ティト小松神父はしばしば津軽海峡を渡り……東奔西走その辛労もとより筆紙の尽くす処にあらざりき。」
と記し、辞を極めてその労苦を讃えている。当時の北海道の信徒は、同公会議事録によると函館復活教会所属で、メトリカ(信徒記録簿)に記載の信徒総数574人、内、有川20、七重6、寿都11、札幌9(市来知であろう)、小樽5、福山6、北海道諸道に散居する者11人、その他、諸教会に散入とある。小松司祭の前任者はディミトリイ司祭で、師は1月に東京に帰り、5月には司祭ガウリイル来るとあるが師も帰国している。尚、同16年、小松司祭管轄の伝教者は、ニキタ森、他三名である。
 道東の根室は、未だ公会議事録にその片鱗さえ見あたらない。当時の正教の伝道は、函館を中心に福山・江差・寿都・小樽と北海道の西海岸が主体であり、内陸の幌内(炭山地方)、首都的機能を備えつつあった札幌に伝道が指向されようとしていたのであろう。
 更に、石川師の『正教伝道誌』に、
「此の頃は既に北海道内にも諸処に教会の興るべき徴あり、根室・札幌地方には本州よりの移住信徒も増加せしかば云々」
とある。札幌に一信徒家族が小樽から移住したのは、『札幌正教会百年史』によると明治17年6月であることを考え合わせ、更に石川師の文章を続けると、
「……ティト小松神父は函館に在りて同地方も管轄したり云々」
とある。ティト小松神父は明治17年に初めて根室を訪れ、根室に伝教者が配置されたのは明治20年8月である。

  


② 小松司祭の来根 

 『札幌正教会百年史』に、
「明治17年マルク阿部多美治筆や(毛筆販売業のことであろう)小樽より南一条西三丁目に移転し来たる。」次いで
「根室より小松司祭巡回す」
の一文がある。残念ながらその来根月日は不明であるが、小松神父が初めて函館より道東・根室の大地にその足跡を印されたことがうかがわれる。7月19日付の函館新聞は、
「千島アイヌ、役人の説得に“拝謝”して住居を焼き払い、百余匹の飼い犬を殺して占守島より引き揚げた。」
と報じている。
 小松神父の来根は、少なくともクリル人の強制移住に起因していると思われる。『斎藤東吉自伝』の中に、クリル人が日本領となった占守島に引き続き居住していた頃、首長は必需品を搭載してきた汽船に書を託して、ニコライ主教に司祭の派遣を請願したことが載っている。主教も小松神父も彼らクリル人について常に憂慮しておられたと思う。
 当時、択捉・国後への便船はあったが、今まで孤島であった色丹、しかも急にクリル人が移住して来たばかりの島への便船は無く、渡島の術なく、ティト小松神父は根室湾頭に立ち、さぞや悲憤の涙を禁じ得なかったことであろう。

   


③当時の根室事情

 道東の正教-その発祥地は最果ての根室であり、そこに教会が建てられ、司祭・伝教者が常駐するに至った経緯について考察すると、その一つは前項に記したように千島アイヌの色丹への強制移住である。
 明治2年、新政府は蝦夷を北海道と改称し、11国86郡を画定した。開拓使が東京に設置されて根室松ヶ枝町に開拓出張所が設けられ、根室は開拓使直轄となっていた。明治4年に廃藩置県が断行され、開拓使庁を札幌に置き、同5年に札幌開拓使庁を札幌本庁とし、函館・根室・宗谷・浦河・樺太に5支庁が置かれた。当時、根室の主産業は鰊・昆布・鱒・鮭等の資源に恵まれた沿岸漁業であった。開拓使は殖産興業政策を掲げ、特に漁場の開発、水産業の発展に尽力した。明治15年には開拓使が廃止され、北海道は函館・札幌・根室の三県時代を迎える。根室県もまた開拓使時代の拓殖方針を踏襲し、地方文化の向上を図り、根室は北海道の釧路・十勝・北見の行政及び経済の中枢地として一躍本道屈指の行・財政中心市街に発展する。その間、函館(当時の函館は道内経済の中心となっていた)、本州からの人口の流入が多く(もっとも、古くは漁場持、旧請負人による漁民召募により東北地方・函館・福山からの移住、開拓使及び根室県の政策により内地からの移民があった)、明治14年末の調査では、根室・花咲両郡合わせて戸数528戸、人口2800人(開拓使直轄当初、明治6年の戸数は50戸、人口250人である)に過ぎなかったが、同18年には根室市街の戸数は1095戸、人口4238人を数えるまでになっていた。官庁・銀行・病院・船会社・物産会社等都市的機能を備えた根室に、敬虔な正教徒が移住か出向していたことは想像に難くない。新しい正教の牧野がここに開かれたのである。このことが正教会発祥の経緯の二つめであろう。
 標津町史に
「江口港が明治16年6月から北海道庁と改められた21年6月まで標津の戸長の職にあった」
とある。戸長となるからには、郡町村内に移住が長く相当な知名度がなくては選ばれるものではない。彼こそ標津正教会成立の嚆矢ともいうべきフィリップ江口港なる正教徒である。
 また、ティト小松師の日誌、初期のメトリカから推察すると、当時の根室市街に函館出身のアーロン小野兄が病院の事務官として、職業は不明であるが毛馬内出身のペートル相川兄も居住していた。以上の事柄からしても、根室地方への正教徒の進出はかなり早い時期であったことがうかがえる。その他にもいたと思われる信徒がティト小松神父より請降福を受け、再会を約束したことと思うが残念ながら記録がない。かくして、最果ての根室の地にも神品の派遣、伝教者の配置が待たれることになる。
 それはさておき、司祭・伝教者がこの地に常駐するに至った経緯の三つめは、明治19年に根室近郊に出現した和田屯田兵村であろう。このことについては後述したい。

  


第2節 小松司祭初めて色丹島へ巡回する

 明治18年5月22日、ティト小松神父は通訳にアレキセイ澤邊師を伴い、クリル人信徒達を訪れる。同行したアレキセイ澤邊日記として『正教新報』に載っているのでこれを要約する。
 「島民皆正教会信徒にして聖三者教会と称す。総員83名なり。22日午後色丹に到着し、ヤコフ・ストロゾフの家に於いて主教閣下の公書を読み、公書に従って
(第一)家宅を聖にし、
(第二)産婦40日の浄めの祈祷をなし、
(第三)傅膏機密を行う。34名なり。これは司祭の巡回が無いので父兄らがその子らに洗礼を執行したもので、師自らの傅膏機密である。
(第四)痛悔機密。
(第五)聖体機密。
(第六)婚配機密。その数11組なり」
 この事について、彼らの歓喜は如何ばかりであったか、次のように文は続いている。
 「以上の諸機密及び聖儀式は十有何年この方領けざる所、見ざる所なり。何となれば交換以後、露西亜司祭の巡回する事なき故なり。されば今、善良の牧者たる霊父の声を聞き霊糧なる聖機密にあずかる事を得しは、この上なき喜びにて筆舌の能く述べ尽くすべき所にあらず。神嘗て言えり『我我が民の声を聞くと』実に神がこの民の声を聞きて与えし所の幸福なるべし。」
かれらハリステアニンとしての感激・歓喜が文章を通して彷彿として浮かび上がってくる。
 「小松神父の彼等の宅に到られし時には、男は婦(おんな)に告げ、婦は嬰子を抱き祝福を受く。5・6才の児童と雖も手を胸にして福を受け、神父の手に接吻を、また家宅浄めの為に行きて実見せしに、家毎に聖像をかけざるなし」
 十年余牧者に会わなかったクリル人が、露国神父より教えられたことを二代、三代と父から子に伝え、ハリステアニンとしての良い躾を守り通した事について、アレキセイ師は以上のように表現している。文章はなおも続く。
 「順良敬虔なる民なれど地上の事に疎ければ地上の幸福に遠し。
(第一)その家屋は風雨を防ぐの全きを得ず、冬期には吹雪家々に満ちて寒気をしのぐ能わず、故に各々自宅に通ずる穴を掘りてこれに居り冬を暮らせりと言う。余この穴居を見て彼等の疾病の原因是に在るを知れり、穴居なれば太陽の光線・空気の流動少なく且つ其の内部甚だ狭くして不潔のみならず、新しき土地なるにより湿気多ければ、強健の人と雖も病気を防ぐ事難かるべし。
(第二)冬寒去り春暖至れば河水増し、家辺の雪とけ溢れて家に入り、17戸の中水にひたされざるもの只2戸のみ、且つ
(第三、第四)衣食甚だ乏しく冬時該島の四面凍るにより魚肉・獣肉・野菜等全く尽きただ米と塩のみ、腐れたるジャガタラ芋は病者の養生品なるを以て察すべし、衣服もこれと同じ、ようやく身を纏うに足るべきのみ、児童らの着衣破れて胸より腰まで見ゆるは衣服少なきの証ならんか、大躯の壮夫すら労働に堪えざるは食物少なき証ならん<<後略>>読者諸士に告げまた乞うことあり、読者諸兄よ、我が既に記せる所は飾りならざる事実なり。彼等去年よりして当冬に至るまで忍びたる惨状を己が身の上に比べ見よ。而せば必ず大いなる教をうけん。主を愛するの諸士、至微なる色丹信者を矜恤せよ。至貧なる聖三者兄弟に施せよ。」
澤邊亜烈士(アレキセイ)記とある。
 ティト小松神父は次のように述べている。
 「私は色丹から東京へもどると、直ちに彼の地の状態をニコライ主教に申し上げた。主教は何も言わず泣いておられたが、しばらくして『君はあの人達にとって最も近しい牧者であり聖職者である。君は私達の主イイススの言葉を実際に行わなければならない。だから、この件については充分手落ちないよう考えなされ』と言われた」
 かくして、ウラル山脈を越えカムチャツカを経て、汗と血にまみれたロシアの諸神父によって彼等千島アイヌにもたらされた霊糧は、ティト小松神父にしっかりと引き継がれ、クリル人共同体と日本の正教会との間に霊的な一体性が生まれたのである。
 府下各教会の信徒から7月末までに、矜恤品・矜恤金が続々と寄せられた。主教からは聖像、その他、木綿反物とりまぜて83反と木綿綿百包・木綿糸・針など、当時の麹町・牛込・神田・芝・浅草・下谷・本郷・両国・本所などの諸教会よりも古着・矜恤金が多数寄せられ、矜恤金で砂糖その他の物品を購入して色丹へ直ちに送ったと報告されている。その後も、これを聞いた全国の諸教会より信徒・神品を問わず多額の矜恤金が寄せられている。
 ティト小松神父は年に少なくとも一回、時日の許す時は二回も島を訪れ、その度に全国の教会・信徒から差し伸べられた矜恤金で生活必需品を購入し、彼等千島アイヌを巡回慰問している。ティト小松神父の巡回日誌(明治21年から23年まで)に、千島国色丹島矜恤金扣(ひかえ)として、矜恤金・矜恤品を寄せられた全国の教会名、神品名・信徒名が詳細に記録されている。


  

第3節 和田屯田兵村

 北海道の屯田兵村は明治6年12月、開拓使次官黒田清隆が兵農を兼ね、北海道の防備と開拓のため、廃藩置県の士族救済も含め屯田制度創設の議を上申し、8年3月に屯田兵事務局が札幌本庁に置かれた。早くも四月には内地から志願者を募り、琴似・山鼻に移住が始まる。以来11年から江別・野幌、次いで19年に根室和田村に設置となったもので、本道屯田兵村設立のうちでも早期に属するものであった。
 明治19年6月5日、根室市街を隔たる地に福井・石川・新潟・青森・鳥取の各県士族225戸が移住し、所謂、屯田兵村と呼ばれ、その後も21年に120戸、22年には100戸の士族が移住し、当時の根室郡長和田早苗氏が大隊長に就任されたのに因み、和田村と呼ばれたのである。23年に厚岸地区の太田にも屯田兵が移住したが、正教の牧野となったのはこの和田兵村だけである。和田村誌によって以下文章を展開する。
 「兵屋は間口五間、奥行三間半の木造家屋で、附属畑として間口四十間、奥行百二十五間、面積五千坪の土地が与えられ、この兵やが道路に面して四十間毎に整然として建てられた。
 兵村の家庭は戸主が兵卒で毎日練兵場に出勤し、家族は家長が統御し、家族を指揮して与えられた地を開墾する制度で、被服、銃器等は個人に保管させ、戸主、家族共三年間、食料を給せられ、家具・農具等も給与して三年間に家屋所在地の五千坪を開墾し、兵卒も家族も一定の軍規のもとに起居し、喇叭の合図で起き、食事、仕事終わり、休憩、消灯と規律生活を強制させる日常であった。
 三年間の軍規生活は、兵士として勤務する戸主はともかく、家族は何れも士族伝統の生活に慣れ、生まれてから初めて鍬、鎌を手にする人が多く、巨木を伐り倒し茨を刈り、唐鍬で荒地開墾の急激なる過労の生活変化には甚だしき苦痛を感じ、労苦は堪え難かった。夏はツタウルシ、イラクサ等の毒にかぶれ、冬は凍傷にかかる者も多く、風土に慣れる迄は幾多の苦痛が続き、それは想像に絶するものがあった。」
 この原始林の切り拓かれた道東の大地に、正教の種子が蒔かれ、苛酷な気候風土に苛まれながらも萌芽し、明治21年に始まった根室教会のメトリカ(信徒記録簿)に受洗一号と記録されたのは、和田士族パウエル戸田重直兄である。その後、信徒が増え、一時はこの地にハリスト教の楽土が生まれる望みもあったが、和田兵村の廃止により(気候風土は農業に適せず。その後、酪農村として現在まで続く)正教もこの地に開花結実することにはならなかったが、和田出身のフィリップ伊藤兄によって標津、上武佐へと結実して行く。また、19年5月、新潟県高田(現上越市)より、和田に移住したロギン狩野万五郎兄によって、後年の根室教会が維持される。
 和田教会は建物としては廃墟と化したが、今なお、和田の地に萌芽した正教は生き続けている。


  

第4節 小松司祭根室に伝道を志向する

 明治19年7月の公会で、小松神父は北海道寿都(鰊漁で栄え、当時としては小樽・函館を結ぶ海路の中間地点として海運の要衝であった)・札幌(道庁所在地)・幌内(炭山で人口増加)・根室の各所に、今こそ伝教者を派遣すべき好機であると縷々説明されたが、この年、根室・色丹への伝教者派遣は実現されなかった。それにしても、当時、ティト小松神父が道内を自らの足で歩き、この時期に各所に専任の伝教者を配置すべき好機と考えた炯眼は、大伝道者としての面目躍如たるものがある。
 この年9月19日、バプテストの宣教師カーペンター夫妻が来根し、伝道を開始する。カーペンター師は翌20年に死去するが、その後、婦人が遺志を継ぎ、根室国の北から南にかけて遍く福音を説いて回り、我が正教会の行くところ必ず競合の伝道となる。
 小松神父は明治19年9月初旬、函館を出港している。当時、二日もあれば根室に着く。18日に色丹へ向かって根室港を出帆している。その間、一週間以上根室に滞在している事になる。『正教新報』には、根室の痛悔者男女六名、聖洗者一名、標津郡信徒の痛悔者二名、聖洗者一名と記録されている。前述のようにこの頃は、函館・本州より信者が移住し、根室・標津にも少なからぬ信者が居住しており、小松神父の来根を待ちわび、師の痛悔・聖体機密を如何に切望していたか想像出来る。
 標津郡とは根室に近い標津村のことであろう。距離にして根室から約六十㎞の行程である。当時の内陸旅行は駅逓の馬を利用し、風蓮湖、温根沼は渡舟によらなければならず、現在の我々には想像すら出来ぬほどの旅路である。標津の信徒は、或は海路を利用したかも知れぬが、当時の信徒の熱烈な信仰を窺い知る事が出来る。根室には未だ教会が無く、この時の聖洗者は函館教会のメトリカに記録されたと思うが、それも明治の大火で焼失しているのでその聖名、氏名は不明である。
 ティト小松司祭は、根室滞在伝教中に神の恩寵であろうか、確固たる人物に出会った。彼は小松神父の説教を聴いて正教にいたく興味を抱き、神父を自宅に招待して正教要理に熱心に耳を傾けて聴いた。
 色丹より帰根したティト小松神父は、今回の根室伝教中の有力な新聴者である氏を訪ね、互いに胸襟を開いて語り合い、来年1月必ず訪ねる事を約束し、翌2日、函館に向かって根室を出帆している。
 彼は四国讃岐の出身で、早くから兄の岡伊之助氏と共に根室に渡り、海産物商として一家を成し、明治22年、ティト小松神父によって授洗されたイオアキム岡伝次郎兄その人であり、この後、永く根室教会の柱石となった少壮有為の実業家である。


  

第5節 色丹島巡回(小松司祭)

 ティト小松神父は明治19年9月18日、汽船矯龍丸に乗船して根室を出帆、同日、色丹島に着到なさっている。この時、神父は露国姉妹よりの恵送金二百円、日本諸教会より寄せられた十五円四十銭で物品を購入し、色丹のクリル人を慰問巡教している。物品の主な物を挙げると、赤地毛布六十五枚、砂糖三樽、梅干十一樽、麦粉四俵、教会備付用として箪笥、時計一個、祈祷時間合図用の船鐘一個である。聖体機密用の葡萄酒二本、一金一円とあるが、当時の汽船乗船賃は根室より函館迄下等四円、横浜より函館迄五円、根室-釧路間二円、根室-色丹間二円五十銭とあるので、聖体機密に使用する葡萄酒は当時としては貴重品であったのであろう。ヤコフ兄には大工道具一式となっているが、兄は大工としてその技術優秀であり、兄自らの監督で教会堂、村医の住宅、役場や小学校まで建てられたと伝えられている。今回の巡回時には、前年巡回の時元気であった首長アレキサンドル兄が永眠し、副首長ヤコフ・ストロゾフが首長に就任していた。同族の女性信徒に慕われていたヤコフ首長の妻アクリナ、その外に二名の同族も天に召されていた。痛悔人員男女五十二名、首長ヤコフが授洗した四人を加えて聖体機密を領した者七十四名、スボタ・主日の祈祷にはヤコフが誦経者となり、ゲラシムが詠隊を指揮していた事等が『正教新報』に記載されている。
 この時、陸中の人、村田金蔵氏がサワティの聖名で日本人として初めて受洗し、皆に祝福され、信徒会議で議友に選ばれている。この後も、色丹に移住したり出稼して来た日本人が正教に帰依し、或は先住民と結婚してこの孤島の聖三者教会を先住民と共に維持して行く。
 今回、聖体機密をうけた者七十四名とあるが、明治十七年にこの島に移住した先住民は九十七名で、実に二十名以上の人口の減少である。
 小松神父は、明治21年7月にも色丹に巡回している。この時、神父は明治20年に福山・江差に配置されたペートル小田島伝教生を伴い、日本諸教会より寄せられた義捐金で木綿百余反及び木綿糸、砂糖その他の必需品を購入、5日に根室港を出帆し、28日まで色丹島に滞在、先住民を慰問巡教している。21日、スボタ(土曜)祈祷後、同島の諸兄姉が小松神父、ペートル小田島師に次のような哀願をした事が『正教新報』に載っている。
 私たちが色丹島に移住して以来、病に罹る者多く、四十八名もの同族が既に永眠しております。私達の多くは妻を亡くし、夫を失い、孤児になった子らも居り、結婚するにも相手が居なく、このままでは我が民族も絶えてしまいます。どうか我々を故郷のシュムシュ、ラサワ島に帰して下さるよう、日本政府に請願して戴きたい。」
 前述のように先住民の人口の減少は、彼らにとって民族の滅亡にもつながる問題であり、文面に彼らの苦衷の程が滲み出ている。
 翌22年8月にも師は色丹に巡回している。その時の師の日誌によると、色丹全信徒・老若男女六十三人を次のように明記している。
      定年以上男子 十三名 同女子 十五名
      十年以上男子  九名 同女子 五名
      十年以下男子  七名 同女子 十四名
      この内、五十年以上 男 三名 女 二名
定年とは三十才としている。明治19年に師が巡回された時の全信徒は七十四名で、出生を考え合わせても十一人の減少である。
 更に、貴重なティト小松神父の日誌から一文を記載する。
 「8月27日生神女就寝祭 当日傅膏機密ノ子供三名前夜の痛悔者四十二名ト外ニ領聖者小児十八名総員男女六十一名イズレモ領聖セリ 終リテ説教ス 二名ハ遠方ニアリ 同28日 教会規定五ヶ条壁書ス 右ハ日曜日及ビ諸祭日ヲ必ズ遵守ノコトナリキ」
 また、26日至聖生神女就寝祭前夜、次のように彼らを詰問している。
 「祈祷前説教セリ 同人等信者本分ヲ失シタルヲ厳責ス 如何トナレバ虚偽ノ言ヲ以テ吾等ノコトヲ地方官吏に説話セシニ因ル」
 しかしながら当時、スボタ・主日・大祭にこれだけの参祷者を数える教会はあったであろうか。若し、良俗から外れようとする仔羊が居れば、その子に厳しく正教の躾を諭すティト小松神父は、彼らにとって慈父であり、得難い神品であったことであろう。


  

第6節 根室に初めて伝教生配置される

 明治19年の公会に於いて、陸奥・羽後の毛馬内・大館・久保田(現秋田市)らの本州諸教会の管轄を解かれた小松司祭は、函館を拠点として東は色丹・根室、西海岸では福山・江刺(現江差)・寿都・黒松内・岩内・小樽、更に札幌・幌内と東奔西走し熾烈な巡教を続ける。
 当時の交通手段としては、手宮(現小樽)-札幌-幌内間に鉄道が敷設されているのみで海路が主であった。函館を起点として明治18年、根室・室蘭・小樽まで日本郵船による航路が開設され、その他、不定期の航路が発展途上にあったが、冬期は欠航も多く当てにすることが出来なかった。従って冬期、または急を要する時、函館-江差間は大野を経由し、また函館-寿都間は長万部・黒松内を経由して駅逓の馬か馬そりを利用している。函館-札幌間は、函館から陸路で森、森から室蘭まで海路、室蘭から札幌まで三十四里強の道を駅逓の馬を利用する。順調な時でも丸4日はかかっている。小松神父の日誌を見ると、冬でも函館から小樽まで船を利用していることが多い。小松神父の巡回は、現代の我々には想像すら出来ぬ苛酷なものであったであろう。室蘭-岩見沢間の鉄道の開設は明治24年であり、小樽-函館間の開通は明治38年である。
 明治20年の公会でティト小松神父は、有川(現上磯)・福山・黒松内・寿都・小樽・札幌・幌内石炭地方・釧路地方・根室・厚岸に各一人(内寿都・ペトル湯村)の伝教者派遣を請願している。『正教新報』に釧路の地名が出たのは、この時が初めてであろう。
 この年、聖公会は北海道地方郡に函館・札幌・小樽・釧路の四伝道区を設定し、函館より宣教師寺田藤太郎氏が移住し、釧路を中心に活発な伝道活動を続け、翌年ジョン・バチュラーも来釧し、釧路聖公会が信者の献金で教会堂を落成している。
 当時、釧路市街の発展を促したのは、明治18年、無人の熊牛原野(現標茶)に釧路集治監(監獄)が降って湧いたように出現したことによる。所謂囚人労働が始まり、道路の開削、アトサヌプリ(現川湯)鉱山の硫黄の掘削に幾多の囚人が犠牲を強いられる。硫黄の搬出にアトサヌプリ-標茶間に鉄道が敷設され、標茶-釧路間に釧路川を利用して蒸汽船が走る。それらの動力源として春採炭山が開坑されて石炭が掘られ、水産物、硫黄の輸出に町は活気づき、明治21年には釧路の戸口667戸、人口2897名を数える市街地として発展している。
 この時期、ティト小松師が釧路地方に伝道を志向したその先見の明には、ただただ敬服するものである。
 明治20年の公会で、初めて道東にシモン東海林勇次郎師が配置され、根室・釧路・色丹を管轄することになる。
 シモン東海林師は、岩手県陸中の飯岡村山田教会出身(現岩手県下閉伊郡山田町)で、この年伝教学校を卒業し、伝教生として根室・清隆町の岡伝次郎氏宅に寄宿し伝道を始める。師の熱心な伝道によって翌21年6月、和田村から後年、和田教会の議友長となるパウエル戸田重直兄他2名、根室市街からはマトフェイ松本菊次郎兄(シモン東海林師と同郷)他2名、計6名がティト小松神父によって受洗している。これらの諸兄が、根室教会のメトリカに最初に記録された先人達である。


  

第7節 和田屯田兵村に講義所開かれる

 明治21年の春、当時、支別(現標津)の戸長で正教信徒である江口氏(前述)よりシモン東海林師に、標津にも是非出張して欲しいと懇請されている。また、この頃の余話として、根室正教会の啓蒙者(求道者。要理を勉強中の者)の一人が新教信者らと相互の教理について討論したが、多勢、まして彼は未だ受洗しない啓蒙者であり、言い負かされてシモン東海林師に助勢を求めた。この時の議論は正教のイコンにも及び「偶像を崇拝している」と誹謗されたのであろう。その後、シモン師は三、四人の信者と右の啓蒙者を伴い、新教信者も三、四人集まり、その中で師は、何故聖像が必要なのか、聖伝は聖書と並んで尊ぶべきものであることについて、滔々と数時間にわたって説き明かしている。当時、根室・和田・標津に於いても伝道上バプテストと競合しており、その間の事情の程がうかがわれる。
 この年、シモン東海林師は屯田兵村に講義所を作り、広く正教を布教する為に大隊本部に講義所設置の願書を提出する。本部にはこの年、ティト小松神父によって授洗された戸田重直兄が居り、兄は曹長として大隊本部の幹部でもあり、9月に本部より許可がおり、兄及び床田兄(この年受洗)、根室の啓蒙者岡伝次郎氏らの財政援助を受けて和田市街地に家屋を借り、ここに和田正教会の基礎が出来上がる。以後、シモン師は和田・根室と積極的に伝道に取り組んで行くのである。
 明治22年8月、公会の帰りであろうか、ティト小松神父はシモン東海林師を伴って根室に巡回されている(其の後、色丹島へ巡回する)。貴重な小松神父の日誌の中から、この時の授洗模様を紹介する。
 「八月十七日 啓蒙者四名ニ第三啓蒙ト簡単ナル試験セリ 祈祷者七・八名
  同 十八日(主日) 早朝六時ヨリ男四名ノ聖洗者ニ機密ヲ執行ス 人員左ニ……」
とある。この時の受洗者は明治19年以来小松神父に正教を学び、その後も神父が来根の都度身を寄せたイオアキム岡伝次郎兄である。他に根室在住者二名(毛馬内出身者と江差出身者)、和田村一名の計四名が受洗している。
 この時の日誌を見ると、当時の根室の郡長を表敬訪問しており、屯田の和田早苗大隊長にも会見している。色丹へ渡った時は戸長が小松神父を訪ねている程である。当時のティト小松神父の社会的地位、師の人物的偉大さが日誌を通して百年後の私達に伝わってくる。
 明治22年の公会に遡るが、公会でティト小松神父は色丹島の現況を説明して、伝教者一名を同島に派遣されることを請願し、二、三名の希望者の中から、モイセイ湊伝教生が根室教会配置となったが、実際には桧山郡江差中歌町に配置される(ティト小松神父の日誌より)。翌23年の公会議事録には、モイセイ湊師の住所は前記となっている。


  

第8節 ティト小松司祭の日誌より

 明治22年、函館に著名なロシア文学者セルギイ・グレボフ司祭が着任する。同司祭は函館聖堂付で、管轄司祭は小松師である。師は函館とその近傍をセルギイ神父に任せて、自らは北海道全域を巡回する。師の日誌より東奔西走する超人的な足跡を簡単に追ってみる。
 明治22年9月24日、色丹・根室より帰函するや29日、陸路寿都へ(この時は寿都会信徒危篤の電報による)。ここを中心としてその近郊の歌島・永豊・黒松内の信徒を訪ね、11月1日、寿都より海路、岩内を経て小樽に入る。14日、汽車で札幌に行く。12月7日、小樽より海路、函館に帰る。更に陸路、江差の信徒を訪ね23日、帰函する。30日、陸路、寿都へ向かい、23年の元旦を黒松内の信徒宅で迎え、2日に寿都に着いている。12日より気管を病み(風邪で気管支炎にかかったのであろう)3月2日まで薬服用とある。この間も寿都やその近郊の信徒に痛悔・領聖・領洗の諸機密を執行している。3月26日、船で小樽へ。小樽より札幌を経て幌内に入り31日、札幌に帰る。その後、4月19日まで札幌に滞在し同日、小樽より海路、20日に帰函している。更に22日、船で函館を出発、江差に寄港し、24日に寿都着。5月13日、寿都より船で江差へ行き、21日、馬車で函館に帰る。更に6月27日、函館を出帆、28日に根室に着港している。7月30日、根室より色丹のクリル人を巡回し、帰路、択捉島の留別村に一信徒を訪問し、8月6日に根室に帰っている。
 この日誌の中には各地での痛悔・領聖・領洗の模様が詳しく載っている。二、三の例をあげてみる。
 明治22年10月20日の主日に、寿都会の領聖者27名とあり、翌年4月の札幌教会大祭には信徒数40余名が来会するとある。また5月17日、18日、江差会で信徒の痛悔者13名、聖洗者・小児7名とあり、痛悔者の中にモイセイ湊師の名が出ている。
 根室では7月11日、12日、痛悔者12名、領洗者6名、領聖者総員19名となっている。また、7月30日、色丹会で老若男女56名に痛悔機密を、翌日、彼らに領聖機密を執行している。
 当時の正教伝道は、日本海西岸より札幌にかけて重点的に志向されており、これに比べて根室の牧野は新しく、モイセイ湊師が明治22年の公会で根室に配置になったにもかかわらず、江差で伝道に従事していた事情が理解できる。
 小松司祭は、明治23年の公会には欠席し、師の住所は議事録に不定となっている。


  

第9節 根室弥栄町に教会が開かれる

 明治23年9月、アルセニイ・ピレトリイ修道司祭が函館に着任する。セルギイ・グレボフ司祭が東京公使館付となって函館を去った後をうけての着任である。
 明治24年の正教会公会は、3月10日から臨時に行われた。これは東京神田駿河台の復活大聖堂(ニコライ堂)の成聖式が3月8日に行われた為であろう。全国から神品26人、伝教者124人が集まる。函館からアルセニイ修道司祭、札幌から松本伝教者、根室から東海林副伝教者、各地の教会代議士66人が出席したが、我がティト小松師、モイセイ湊伝教者は欠席している。ティト師の住所は不定となっている。
 この公会で函館に、浅草教会の伝教者を務めていたペトル山縣金五郎師が司祭として着任する。小松司祭管轄としては、
  札幌・小樽及び其の他    伝教者 松本パウエル
  寿都・黒松内          副伝教者 湯村ペトル
  根室               伝教生 湊モイセイ
  福山・江差           副伝教者  東海林シモン
以上の配置となるが、『札幌正教会百年史』によると、明治24年の公会後、アルセニイ修道司祭が長期出張の形で札幌に在住するとある。この公会に欠席した小松神父の請願は、札幌に松本伝教者据置、他二名派遣、司祭常住の事、札幌会堂設立の事であり、他の事には触れていない。ティト小松神父は、明治22年の公会で札幌に会堂建立の急務である事を力説し、師の日誌を見ても、札幌教会堂建築寄付金請取扣(ひかえ)として、受領した各地の教会の信徒名、神品名、伝教者名を事細やかに記録している程である。当然、ティト小松神父は札幌会堂建築の為に、札幌を中心として伝道活動に従事している筈であると思うが、明治23年8月6日、色丹より根室へ帰った後の師の足跡は不明である。メトリカ(信徒記録簿)は神父の輝かしい宣教の記録である。明治24年の根室・札幌のメトリカにも師の名は無い。師の名が根室のメトリカに記録されたのは翌年1月からである。ティト小松師は23年8月、根室から函館・寿都・江差と巡回し、江差で病に倒れたのではなかろうか。山縣司祭の函館配置、アルセニイ修道司祭の札幌長期出張も、主教の小松師への御配慮ではなかろうか。師の日誌を見る限り、その熾烈なまでの伝道が24年に限り空転する筈がない。師は江差で病に倒れたのではないかと記したが、或いは寿都か、病院のある函館で静養していたのではなかろうか。当時の函館正教会のメトリカも無く(明治の大火で焼失)推測の域を出ない。
 明治25年5月15日発行の『正教新報』に根室会近況として「同会も愈々好景況にて今春、小松神父の赴任ありし以来、去月の大祭までに聖洗機密を領けし者27名…(後略)」とあるが、小松師の空白の期間には触れていない。この事については後述したい。
 それはさておき、モイセイ湊師は24年3月の公会後来根し(江差より)、弥栄町一丁目に教会を構え、根室のイオアキム岡、和田村のパウエル戸田兄ら諸信徒の協力を得て、根室・和田にと熾烈な伝道を開始する。


  

第10節 釧路に初めて正教徒生まる

アンティパ藤原の子 アルセニイ修道司祭より受洗する

 『正教新報』第267号に「明治24年9月13日午後一時入港の出雲丸にて、函館滞在のアルセニイ神父根室港に着せられる。」とある。小松神父の依頼によるものであろうが、小松師の身辺に何かが起きたとも考えられる。
 神父は教会に宿泊され、各信徒を訪ね、20日の主日には8名の男女に聖洗機密を執行し、当日午後、パウエル木村兄宅で親睦会が開かれている。
 この親睦会に78名の信徒が集まり、次の五項目を取り決めている。
   第一 イオアキム岡を執事兼議友とし、パウエル木村、フィリップ江口、アンドレイ藤井、アンドレイ川上、和田村からはパウエル戸田、ペートル荘田、パウエル田中の七名を議友とすること
   第二 毎月三回ずつ親睦会を開くこと
   第三 読経者(誦経者)を定めて伝道者不在の説き祭事を行うこと
   第四 教会の名称を「聖母降誕会」とすること
   第五 小松神父の派遣を請願すること
 特に第五項については、ニコライ主教の認可を請う為に書類を神父に託している。小松神父が、根室教会のメトリカにその名を記録したのは明治25年1月である事を考え合わせると、ニコライ主教がアルセニイ神父の言を容れ、根室教会の請願を聞き入れて、小松神父を根室に、アルセニイ神父を札幌に配置されたのではなかろうか。
 アルセニイ師は10月3日、色丹島に先住民を巡回訪問している。10何年ぶりに露人の神父を迎え、色丹のクリル人の歓喜、手の舞い足の踏む所を知らずと想像されるが、新報には「同島に於いてシコタン住民の為に種々談話され、総信徒59名何れも痛悔領聖し婚配も七組あり。」と記されている。帰島後も10月24、25日の両日に、和田会7名、根室会12名、計19名に聖洗機密を授けている。
 26日、アルセニイ神父はモイセイ湊を同伴し、当時の駅逓の旅程で124㎞離れた釧路へ陸路向かっている。
 11月1日主日にアンティパ藤原喜代松兄の家を仮会堂として、兄の長女フチと長男藤吉がそれぞれエカテリーナ、ルカの聖名でアルセニイ神父より聖洗機密を授けられる。当日はアンティパ藤原、フォマ鈴木、ドームナ鈴木、アナスタシヤ小笠原の諸兄姉らも痛悔・領聖をうけ、終わって永眠者の為にパニヒダを行っている。午後6時より神父の説教、湊師の講義があり、十二、三名の聴聞者が集まっている。
 神父は二、三日滞在して函館に帰ったが、湊師は便船の都合で9日に釧路港を出帆して12日浜中へ、そこから陸路根室に帰っている。
 当時、釧路市街にアンティパ藤原喜代松夫妻、フォマ鈴木夫婦、アナスタシヤ小笠原姉らの正教徒が居住していたが、釧路正教会としては、アンティパ藤原の子二人が釧路に於いて洗礼を受けた明治24年を歴史的基点として開教元年とし、平成3年11月1日を開教百年と定め、釧路教会の先人を偲び、併せて現在の老朽化した聖堂を新築してこれを神に献じ、今後益々の発展を祈願して、平成4年9月に釧路正教会開教百年祭が挙行された。 (HP管理者より:太字の部分は過去形に改めました)
 アンティパ藤原兄は秋田県仙北郡横沢村出身で、戸籍上では明治26年3月に幣舞町1丁目13番地へ転任とあるが、実際の来釧は同24年以前であろう。
 明治16年7月の公会議事録による小松司祭管轄の伝教者配置表を見ると、久保田(現秋田市)、千北地方、雄勝地方に伝教者が三名も配置されている。千北地方とは仙北郡のことで、角館を中心に古くから正教の伝道が及んでいる地方である。アンティパ兄の受洗場所、時期は不明である。夫人は函館元町の倉岡馬之助氏の長女である(明治34年永眠)。倉岡氏は明治37年の“露探事件”で追放された篤信の正教徒である事から考えても、アンティパ藤原は夫妻とも古くからの正教徒であろう。この後、アンティパ兄は永く釧路正教会を支え、教会維持のためにおよそ千坪の土地を献じている。現在、その地に新聖堂が建立され、周辺の約3000㎡の土地は教会の貴重な基本財産となっている。アンティパ兄は明治41年3月30日永眠。釧路市紫雲台墓地に永寝されている。
 兄の二女フチ姉は伝教者フェオドル斎藤師と結婚し明治末永眠。長男ルカ藤吉兄は終戦後、満州から引き揚げ、その後亡くなり墓は九州熊本にある。ルカ藤吉兄はトリーフォン佐藤助次郎兄(後の執事長)の二男鉄男氏を養子に迎えている。鉄男氏はウラジミルの聖名で内田神父より受洗している。今は遠く九州の熊本市に居住している。
 釧路正教会の在る限り、アンティパ藤原兄の霊(たましい)は、兄の墓とともに永遠に記憶される事であろう。
 アルセニイ修道司祭は翌年も色丹に巡教し、明治26年に大阪に転出する。明治27年、ロシアに帰国して後に主教となり、1917年の革命の時に殉教致命している。 


  

第11節 根室正教会の教勢大いに伸びる

 明治25年、函館に山縣司祭、札幌にアルセニイ修道司祭、根室にティト小松司祭が配置され、北海道は恰も三司祭体制を形成するやに至ったが、これは明治24年の公会による配置でない事は前に述べた。
 それはさておき、ティト小松神父は根室に在って、教会を繁華街の花咲町2丁目40番地に移し、根室・和田と本格的な伝道を開始する。25年の公会議事録景況表には領洗者72名を数え、道内で札幌・函館教会を凌ぐ勢いとなる。湊伝教生一人では手薄となり、函館元町の正教小学校教員(当時、教員は伝教も兼ねていた)フェオドル湊松次郎師を根室に呼び寄せ、モイセイ、フェオドル両師がティト小松師の左右の手となり、根室・和田の伝道に活躍するのである。また、後述のセルギイ大塚師が根室監獄の教戒師として側面から小松師の伝道を助ける。信徒もイオアキム岡、マトフェイ松本菊次郎の諸兄を中心にして教勢の発展に努力する。この後、教会の柱石となるティト向井三四郎兄も、この年の4月に受洗する。根室郊外の屯田兵村の和田市街地にも講義所が既に設けられ、パウエル戸田・ペートル田中実有の諸兄を中心に教勢の発展を迎えようとしていた。
 当時の和田兵村人の気質をよく表した面白い挿話がある。昭和28年12月発行の『正教新報』に、フェオドル斎藤東吉師が寄稿された「小松神父の吟声」である。シモン東海林師もその中に出ているが、師は福山に在って当時根室には居ない。貴重な資料であり、明治25年頃を背景として引用する。
 「ティト小松神父の根室中心の伝道は実に目覚ましいものであった。その頃バプテストのカーペンター夫人の宣教もたいしたもので、北のラウスから南の花咲に至るまで貧富を問わず一人ひとりに福音を述べまわった。住民に言わせると、この寒い根室で酒と煙草は全く救いの親であり、キリスト教は禁酒、禁煙の宗教で、我らは酒を止めてまでヤソになる事はないと、洗礼をうける者は稀であった。
 その頃、大祭の祝賀会が和田村の教会で行われた。村の異教徒も参加し酒が出た。酒豪の多い屯田兵村の事であるから、呑むわ、呑むわで、酔いがまわるにつれて参加した異教徒は、“都々逸”などを歌い始めた。同席して相手をしていたモイセイ・フェオドル両湊、セルギイ大塚も次第に酔がまわって来た。それまで苦い顔して座席を眺めていた小松神父は、急に蛮声を張りあげて“鞭声粛々”と詩吟を始めた。すると、フェオドル湊は二尺指を持って剣舞を始めた。ヤンヤの喝采である。それまでヤソ教と言うものは、酒も飲めず、煙草もすえぬ窮屈なものと思っていた兵村の人達は、正教は我らを救う福音である。信徒になっても酒も飲める。煙草も吸える。正教は救いの宗教であると新聴者が続々と出た。」
とある。
 文中、我田引水の感があるが、それも当時の真実であろう。現在、根室には我が正教の教会は無く、バプテスト教会が現存している。転た(うたた)感無量を覚える。
 明治26年の公会議事録に、根室教会の領洗者47人と記録され、この頃が根室教会の全盛期であり、全国屈指の大教会と言っても過言ではない。この年の公会に於いて、シモン東海林師が江差より根室に再び配置となり、伝教者の陣容が益々強化されて行く。
 北海道の広大な牧野に神の恩寵を説いて廻った大伝道者ティト小松師も齢五十を迎え、師の健康が心配される年代となる。


  

第12節 小松司祭白河教会へ転出する

 『色丹島歴史年表』、色丹島の“千島アイヌ”の研究者、林欽吾氏によると、明治26年、クリル人首長ヤコフ・ストロゾフ教会堂を新築するとあり、これはヤコフ自ら造ったものである。勿論、ティト小松師によって成聖された事であろう。
 明治26年の公会で、白河教会の福井伝教者、西村代議士らはティト小松師を白河へ迎えようと演説し、櫻井伝教者は宇都宮に、高橋輔祭は師を野州に迎えたいとこもごも発言したが、アルセニイ修道司祭のみ師を根室に据え置く事を主張する。アルセニイ師は明治23年以来、小松師とは互いに熟知の仲で、今回、ティト小松師が本州に転出する事は、北海道の正教会にとって好ましくないと考えたのであろう。が、神品会議によってティト小松師は白河教会に転出が決まる。その後、小松司祭は白河聖堂を本拠として福島県下から栃木・茨城・群馬の諸教会を管轄し、明治45年1月永眠。遺体は白河市円明寺境内に葬られる。ティト小松師の出生、経歴については『札幌正教会百年史』に詳細に記述されている。
 ティト小松司祭は道東の正教会にとって初代の神父であり、師によってクリル人が日本正教会の一肢体となって神の恩寵に浴し、根室・和田に教会が興り、現在の釧路・上武佐・斜里教会の歴史を辿って行くと必ず突き当たる源流である。
 ティト小松師の建碑の事を記載した『福島正教』によると、大正元年9月、白河教会より寄付勧誘趣意書が故神父に縁故ある諸教会及び諸神父方に発送されている。その趣意書の発起人の冒頭に釧路正教会のロマン福井寧師の氏名がある。当時の道東正教会は、釧路にロマン福井司祭、ナウム山内伝教者、根室正教会にセラヒム湊輔祭、斜古丹聖三者教会・イサイヤ関伝教者、帯広正教会・ルカ武山伝教者、網走正教会・パウエル小川伝教者という体制である。建碑趣意書に応じて釧路教会管轄内より多数の寄付金があったと考えられるが、残念ながら網走正教会を除いては当時の記録がない。その記録には、アントニー鈴木、パウエル小川、コルニリイ星、ティト向井、イオアキム岡、ダニイル田中、アレキサンドル氏家諸兄の氏名が列記されている。
 碑は大正2年5月25日、円明寺境内(寺は江戸中期から末期に廃寺、消滅し、今は只の丘地となっている)に竣工される。碑は台石より高さ一丈余、碑文は仙台正教会を永く司牧し、小松師と同じ年に叙聖されたペトル笹川司祭の撰文、揮毫によるものである。


  

第13節 桜井司祭根室に着任する

 明治26年の公会で小松司祭の後任として、宇都宮教会の伝教者ニコライ櫻井宣次郎師が、主教ニコライに叙聖されて根室に単身赴任する。北海道は函館に山縣司祭、根室に櫻井司祭の二人体制となる。司祭は函館・有川を除く根室・釧路・色丹島・札幌・小樽・寿都附近、岩内・江差・福山と広大な牧野を管轄することになる。
 行政的には札幌・函館・根室の三県が既に廃止され、明治19年以降、札幌は道庁所在地として行政・教育の中心となり発展を続けている。明治24年には鉄道が岩見沢より空知太(瀧川・砂川の中間)まで、更に岩見沢・室蘭間が完通して札幌を中心に内陸への交通が一段と便利になっている。
 櫻井神父が根室に配置となった頃には、教勢は瀧川、更に旭川方面へ、また日本沿岸を北上して留萌・稚内まで及んでいる(明治28年の公会議事録には稚内の領洗者15名と記録されている)。伝教者も札幌に2名、小樽に1名、寿都・黒松内・岩内に1名、江差・福山に1名が配置され、明治27年には札幌に会堂が完成している。道内(函館を除く)の宣教の拠点が道央に移ったと言っても過言ではない。従って櫻井神父が根室に滞在する期間は短く、一旦根室を出ると一年近くも出張を余儀なくされる。根室は教勢的にも、地理的にも最果ての一辺地であると言わざるを得ない。この時期、櫻井神父の根室への配置は、色丹島に強制移住となったクリル人に対しての主教の聖慮であったのではなかろうか。
 さて、当時の根室正教会は、花咲町2丁目にあり(借家)和田には市街地に一戸を借りて仮会堂とし、教勢は根室に信者90数名、和田に50名近く居たが、標津には未だ教会組織が無く、標津漁業組合孵化場に勤務しているパウエル小川兄その他、標津・別海に住む数人の信徒が根室教会に所属していた。釧路にはアンティパ藤原一家その他、数戸の信徒が居るに過ぎなかった。
 当時、シモン東海林副伝教者、モイセイ湊伝教生が根室に於いて活躍しており、根室監獄の教戒師セルギイ大塚、また函館元町の正教小学校教員フェオドル湊が宣教に大きな力となっていた。
 色丹島には、首長ヤコフ以下57名のクリル人信徒が、後任の櫻井司祭の来島を待っている。実際にはこの年神父は渡島出来ず、翌27年9月に初めて、色丹島へ巡回している。
 櫻井司祭来根以来、副伝教者シモン東海林、伝教生モイセイ湊、フェオドル湊師らが大いに活躍し、明治27年の公会議事録には、領洗者36名と記されている(札幌6、小樽13)。信徒も伝教者も力を合わせて布教と会事に尽力し、明治27年の降誕祭には参会者多く、道内は殆ど立錐の余地も無いという状態であった。復活祭は丁度、漁期に当たり、信徒中には漁場に出て、不在の者もおったが、それでも70名以上の参会者があった。祈祷は28日午後11時50分より始まり、29日の一時半に終わる。2時から談話会を開き、8時より感謝祈祷を献じて祝宴に入る。10時頃より当地の公園で信徒運動会を催し、信徒一同大いに親睦を深めて午後3時頃散会すると『正教新報』に記載されている。櫻井神父は札幌に出張中で、根室に7、8名、和田に5、6名の新聴者が領洗を受ける為、神父の帰根をお待ちしているとある。 メトリカを見ても、この年9月まで神父は帰根していない。

桜井司祭色丹島へ巡回する

 櫻井神父は、明治27年9月14日に初めて色丹島へ渡っている。この時の様子が『正教新報』に報告されているので要約する。
 「罪子、幸い14日の船便で色丹島へ渡島することが出来た。彼らも久々に司祭に出会い且つ初対面の司祭であり、罪子も根室に赴任して以来、彼らを巡教しなければと常々思っていたが、今初めて面会することが出来、歓喜言葉に尽くせぬものがあった。降福を求める彼ら、祝福を与える罪子も互いに感激のあまり溢れ出る涙を禁じ得なかった。
 当時、彼らは神恩によって異常も無く、充分とは言えぬが、官の撫育を受け(明治18年より27年まで十ヵ年間撫育費が計上されていた)、日々に神を賛美して月日を送っている状態である。首長ヤコフ始め、年配者達は立派なハリステアニンとして申し分ないが、多数を占める青年達は、その意志、品行ともみじめで醜い行いが多く、狡猾にさえなって来ている。これも近年、漁業の為に多くの内地人が同島に入り(『色丹歴史年表』によると、明治26年頃より同島東南のオホーツク海に面するアナマ湾に内地人が移住、出稼ぎの漁人多く、32年、3年頃より鱈釣漁船数十艘を数えるとある)質朴な彼らを誘惑し、その徳風を乱しているためであろうが、厳重な懲戒も神の御旨に添わぬと思い、今回は懇々と彼らを諭し、痛悔・領聖・説教を通して彼らに深い悔恨と感激を与え、彼らも新生命を得たことと思う。これ迄は少し寛大し過ぎたのであろうか、このまま過ぎる時は永遠の滅亡の外ないと思う。明年は、是非モイセイ湊兄を島に越年させたく、同兄もその決心である。」
 当時の兄弟は57名とあるが、移住当時97名を数えた人口の激減は悲しいことである。加えて、この頃から同島へ出稼してくる内地人の悪習に染まる者も多く、また後章で述べる「僧侶」の誘惑もあり、素朴な千島アイヌを守り、教化する為にも伝教者の派遣、配置が必要となって行く。


  

第14節 監獄教戒師

 明治22、3年頃まで監獄教戒師は、全国的に真宗大谷派が殆ど担当しており、北海道でも例外でなかった。しかし、明治22年に札幌監獄署典獄としてキリスト教信者の大山綱立が赴任すると、仏教を排してキリスト教の牧師を教戒師として採用し、これが25年まで続いた。
 また、明治21年に兵庫県仮留置所の教戒師でキリスト教信者の原胤昭が、囚人輸送に同行して釧路集治監に来たが、同じキリスト教信者の典獄大井上輝前の懇望によって、同監の教戒師となってとどまった。24年に至り、これまでの樺戸集治監が北海道集治監として全道の本監となり、大井上が初代典獄となると、集治監の本監、分監すべての教戒事業をキリスト教によることとし、大井上の要請に基づいて釧路の原が斡旋に動き、24年から28年にかけて同志社出身の留岡幸助他9名が教戒師として赴任した。しかし、27年に大井上が非職となり、翌28年に東京監獄の石澤謹吾が典獄として着任すると、キリスト教教戒師の排除運動が活発となり、原ら教戒師全員はこれに抗議して同年11月にすべて辞職、以後、本監分監とも教戒師は一切真宗大谷派によって占められることとなった。以上は『新北海道史』第四巻・通説三による。
 以上のように一時は、北海道内の教戒師は新教派の教師で占められたが、根室のみ正教会の元伝教者セルギイ大塚師が教戒師として活躍していた。師の来根は何時頃か不明であるが、昭和13年10月号の『正教時報』に「明治23年、4年頃根室には、ティト小松神父の外セルギイ大塚静雄…<後略>」と記されている。師は明治24年初期に来根したものと思う。『正教新報』には、櫻井神父が監獄署内に出張伝教したとある。さらに、明治27年3月4日のメトリカに領洗者5名の氏名があり、その中に死刑宣告を受けた2名の囚徒も含まれている。この囚徒の余話として、掌院セルギイの『北海道巡回記』の中から一文を転記してみる。
 「数年前、根室の刑務所では正教が教戒を行って居り、実際何人かの罪人がハリストスに向かった。殊に多くの罪のために、死刑の判決を受けていた二人の極悪の強盗の改宗は忘れられない。二人とも信じ、洗礼を受け、深く罪を悔悟し、その判決に不満どころかまだ、あまりにも軽すぎるとさえ思っていた。もっと、ずっと苦しまねばならぬと言うのであろうか。彼等は自殺を決心した。残念なことに教戒師はそのうち一人を、この狂気の手段を止めるように説きふせる時間がなかった。もう一人の重罪犯は救われ、しばらくして斬首刑になった。その際にも唇に祈りを唱えつつ真のハリステアニンとして死んだ。処刑は刑務所で行われたので、もちろん信者達は立ち会うことは出来なかった。彼らはこの時、会堂に集まって、この大切な時にできる限り熱心に、去り行く兄弟のために祈った。そして彼をハリストス教式で葬った。」
 セルギイ大塚師は、明治28年8月13日「アイヌの犯罪後に於ける状態」という建白書を来根した石川典獄に具申し、この年に辞職したものと思う。因みに、明治28年の公会議事録には根室・和田及び附近地方担当の伝教者補助として挙げられている。


  

第15節 桜井司祭の管轄諸教会巡回

 根室正教会のメトリカを見ると、櫻井神父の聖洗機密執行は、或る時期に集中して行われている。札幌正教会の会堂成聖が行われた明治27年4月28日の前後をみても、4月5日の授洗を最後に色丹へ渡島するまで(明治27年9月)受洗者の氏名を見ることが出来ず、死者の埋葬執行も伝教者によって行われている。28年に至っては受洗者皆無となっている。以上から考えても、櫻井神父は根室に席の暖まる暇も無く、札幌・小樽・岩内・寿都・江差・遠く稚内まで巡回していたことになる。以上の地点には主として船を利用したと思うが、日本海も一度荒れたら数日は足止めとなり、その御苦労の程想像に絶するものがあったと思う。たまたま『正教新報』に根室から江差への巡回の様子が載っているので要約する。
 「明治28年2月5日、今回巡回許可の公書を給ったが、汽船の出発と同時刻で到底間に合わず、その後の船を待ち、ようやく27日入航の船に乗ったが、船の都合で28日出帆、3月2日午後11時に函館へ着港する。スボタ・主日には、函館聖堂に於いて山縣神父と共に奉神礼執行し、江差行の船便を待ったが、今のところ予定ないとのことで、5日午前5時に馬雹車(馬橇に幌をかけたものと思う)で江差へ出発する。途中、大吹雪に遭いやっとの思いで江差へ着く。6、7、8の3日間滞在、会務を終え、信者の戸別訪問を済まし、9日午前5時、馬雹車で江差出発、夜函館に着く。江差滞在中、江差寄港の船舶は一艘も無かった。」
とある。
 2月の日本海は風強く、時化続きで当時としては当然のことと思う。陸路、函館から江差まで84㎞余の行程は、函館から大野村、大野村から山谷の嶮岨な路が続き、海岸の泊を経て江差に到達する江差(鶉)街道であった。
 帰函してからも「寿都行の船便が無く、困難は承知の上で、馬車か馬雹車で出発しなければならない。寿都会に出張して、私を待っている信徒に痛悔・領聖を行い、また領洗者も今回必ずいると確信しており、寿都での好結果を御報告出来ることを楽しみに出発する。」と結んでいる。
 櫻井神父はこの後、根室へ帰ること無く、寿都・岩内・小樽・札幌・遠く瀧川まで巡回し、29年春にようやく帰根している。
 櫻井神父が札幌滞在中、明治28年末に本会に寄せた巡回記に「公会に於いて釧路へ配置したフェオドル湊兄(28年7月公会)を、モイセイ湊兄の渡島転任(色丹島へ)以後、その後任として和田村屯田教会に尽力するように手配してきたが、釧路より確たる手掛かりが無く、6、7名の信者が移住している程度で、信徒の実際を把握した上で伝教者を派遣したいと思っている<中略>根室会にも当時、危篤者の病者ある由知らせがあったが、前述の始末(神父は札幌で病気療養中)故、遺憾ながらその要求に応じることが出来ない。」と記されている。明治28年の公会議事録による伝教者の配置は次の通りである。
     根室・和田・及び附近地方   副伝教者 東海林シモン
                        伝教補助 大塚セルギイ
     シコタン島             副伝教者 湊 モイセイ
     釧路地方               同    湊 フェオドル
 後述するようにモイセイ湊師は、この年の10月に色丹に渡って越冬することになる。フェオドル湊師は公会後に釧路へ派遣され、モイセイ湊師が色丹へ渡島するまで在釧し、その後、根室へ帰ったのであろう。明治29年の公会議事録には、釧路の信徒総員11名と報告されている。
 即ち、釧路に派遣された伝教者はモイセイ湊師が初めてであり、次いでフェオドル湊師で、釧路に配置された初代伝教者は、後述のアレキサンドル室越師である。
 フェオドル湊、セルギイ大塚両師は、この年にそれぞれ根室より引き揚げている。明治29年の公会議事録の景況表に両師の名が無い。          


  

第16節 湊副伝教者 色丹島に越年する

 モイセイ湊副伝教者は、明治24年の公会で根室に配置され、以来幾度も色丹島へ渡り、千島アイヌの教化に当たってきたが、明治27年、櫻井神父渡島の際、来年は伝教者を越年させると首長に約束したので、28年秋、色丹島へ渡り彼等と居を共にして教化に専念する事になり、伝教者の長期派遣が初めて実現する。
 明治17年、千島アイヌが占守島から色丹島に強制移住となって11年を経過している。今回のモイセイ湊師の報告に、彼等への政府からの給与品にも話が及んでいるので、高倉新一郎教授の『アイヌ政策史』より生活保護、教育、狩猟について簡単に要約引用する。
 「明治23年の生活保護では、戸口及び労働の如何によって米一日、三才まで一合五勺、九才まで二合五勺、十才以上三合、外に塩、味噌も各戸に支給し、また衣服は、冬夏、綿フランネル肌衣並びに股引一組及び小倉服上下一組、労働者には特に帆木綿上衣及び綿フランネルの肌衣一組半を支給し、婦女、老幼病者へは木綿一反または二反が支給されている。これらは、彼等が独立出来るまでの生活の保証であり、目的はあくまで独立自営をなさしめるにあったので、撫恤方法第四条に『撫恤年間ハ食餌ヲ給スト雖ドモツトメテ自家収穫ノ農作及ビ魚獣肉ヲ以テ食飼ヲ補ハシムベシ』と規定している」
小松神父の彼等への救済は、独立自営できるまで不可欠の愛の手であったことと思う。
 「教育については、彼等に邦語を使用させるため、移住以来児童を集めて邦語と算術を教え、25年には斜古丹小学校が建てられ、戸長役場の筆生が彼等の教育に当たり、同27年8月に色丹教育所と改称されたが、彼等の日本語会話は充分通用する様になっていた」
とある。
 明治22年7月の公会後、ティト小松神父は主教より、
「彼等の内、年齢十才より二十才未満の才智ある者を函館教会の小学校へいれなされ」
と言われ、旅費として金十五円を渡されたが、この年の巡回でどういうわけか実現出来なかった。なお、明治36年9月、ユリタ・ストロゾフ、レン・ストロゾフの二女が、東京ハリストス正教会の神学校に遊学したが、約一年後に病弱の理由で帰島している。
 「彼等は生来海獣を主とする狩猟民族であり、冒険心に富み銃猟に巧みであったが、色丹島は故郷北千島に比べて獲物は問題にならぬ程少なかった。移住後は弾薬を与えられて狩猟に従事し、捕獲した皮類は官の手によって根室へ送り、売却して撫育費に繰り入れられたが、良好な結果とはならなかった。例えば、明治17年の移住当時には、かなりいた海馬は忽ち姿を消し、彼等は直ちに日用の靴の原料に苦しみ、また食用油の欠乏となった。こうした不猟は何時も続いたわけでなく、明治23年のように海馬18頭、水豹14頭、狐86頭、鴨900羽を獲った年もあったが、平均して彼等の従来の生活を続ける程十分ではなかった」とある。
 明治21年7月に小松神父が彼等を巡教した時、三毛狐皮をニコライ主教に献じている。
 モイセイ湊師が明治28年、色丹島へ巡教した際の第一報が『正教新報』に載っている。当時の状況を知る上で興味があり左に要約する。生活保護や彼等の捕獲した獣皮についても報告されているが、前述の通りなので省略する。
 「目下のところ、二、三の兄姉が少々病気の外は全員無事で、信仰上は別状なく、日々に神を賛美しております。島民の教化については、島に着いた週の日曜の夜から始め、昼と夜の部に区分し、午前中は学校も休業のため、子供に『イロハ・数学・要課・唱歌』等教え、夜は十二、三才以上の諸兄姉を隔晩に集めて『要課・祈祷書・唱歌・教和』を引き続き教え、今後も『教の鑑』その他、教書を加えて教導するつもりです。諸兄姉は日中労働しており、そのため夜学もせいぜい三時間ほどに止めております。殊に今年は昨年より収穫物も不足で、昨年より早く降雪、降雹、北風の時候となり、諸兄姉も冬支度に忙殺されている」
 更に、第二報を次のように報告している。
 「本年の救主の御聖誕、御復活祭には<アーチ>を作り、特に御復活大祭には其の上に木の葉で作った十字架を飾り付け、それぞれ国旗、十字架の旗を交叉し、厳斎も以前は老兄姉ばかりで、中年以下の者は口ばかりで実行しなかったが、今回は多少実行したようである。
 当教会諸兄姉の異風としては、主日には夕刻より晩にかけて、中年以下は老年者に対して赦罪を乞い、老兄姉その他は伝教者に対して、神前で痛悔をするような言葉で赦罪を乞う。伝教者として恐縮する程である。翌月曜日には、先例によって総死者のため墓地へ祈祷に行き、また御苦しみの週間中は各々労働しながらも、信仰上一食また二食を減ずる者も居り、一意専心厳斎を守り、大スボタ当日は祈祷を献じた後、諸兄弟交代で『聖使徒行伝』を誦読する。その他はヤコフ首長宅に集まり刻限を待ち、刻限に至ると鐘声と同時に銃士三名祝砲十二発を放つ。これに合わせて総信徒(病者一名を除く)五十七名と共に大祭祈祷を献じ、終わればひとまず散会し、翌朝、準備を整え、役場員・医者・越年者一名を招待して祝盃を挙げ、席上演説並びに<十字架讃詞><君が代>を歌い祝意を表して散会する」
と報告されている。人口はこの時、病者を入れて58名である。
 一村を上げての大祭は、微笑ましく、我らの脳裏にその光景が浮かんでくる。


  

第17節 根室松本町に新会堂建つ

 根室の会堂は、明治28年10月3日の大火で類焼し、一家屋を借りて仮会堂としていたが、議友ティト向井、イオアキム岡、マトフェイ松本兄らは、会堂建設に日夜奔走していたことであろう。
 『正教新報』に「当地の篤志者岡伊之助氏は約の如く新家屋建築し、二十九年十二月三十日にこれに移転、一月六日の大祭には百名の信徒集まり(異教徒十余名)盛大な献祭を行う。」とある。新会堂は議友ら設計し会堂風に造り、200名以上も収容できる壮麗な建物で、明治34年に函館の目時神父が(この年目時神父の臨時管轄となる)初めて当会を巡視なされた時、「北海道正教会中函館を除いて、この根室会の右に出るものはない。」とお褒めになった程である。教会の住所は根室国松本町三丁目二番地である。
 明治31年、ニコライ主教と根室に御巡回なされた掌院セルギイ師の『北海道巡回記』によって、今は無い根室教会を再現する。
 「会堂は町外れにあり、これは我がハリステアニンによって建てられた、新しいとても素敵な家で木の十字架が立っている。家の中はとても清潔で、どこも新しい畳が敷いてあり、広々とした部屋へまっすぐ入ると、そこは信者達が普通集まる所である。右には神父の居室があり、左は祈りのための部屋で、彫刻された格子で囲まれた宝座のあるとても大きな部屋である。宝座の上には高座と祭台があり、壁には日本で描かれた大変素晴らしいイコーナがかかっている。聖障はまだ無い。しかし、信者になったばかりの人にとっては、聖障なしの方がはるかにためになる。そのために、機密の一番偉大な部分の成就を見ることが出来るからである。」
と表現されている。
 この会堂の移転費を含めた畳建具、教会の祭事用器具等の経費は、執事ティト向井兄の尽力により百五円二十銭も集まる。この内、出金は七十七円二十銭になっている。当時、米六十キログラム三円七十二銭であり、畳建具、教会の祭事用器具を含めた七十七円余の移転費用から推定しても、かなりの大金が伊之助氏によって寄付されたものと思う。この根室教会の恩人岡伊之助氏について、三男伊助氏の房乃夫人(平成元年で百才)に当時の事情を聞いたので次に述べる。
 「岡伊之助氏は嘉永二年讃岐国に生まれ、若い時は北前船に乗り、あらゆる辛酸をなめ、明治二十年以前に根室へ渡り、酒造業、雑貨店を開き、昆布の仕入れ、鰊漁場にも手を広げ、借家も何十軒と所有していたと言う。なお、氏は明治末期から大正時代にかけて根室清隆寺の檀家総代を務め、大正九年に家業を三男伊助氏に譲って郷里香川県仲多度郡広島村江之浦に帰り、その地で亡くなっている。因みに、イオアキム岡伝次郎兄は伊之助氏の弟である。房乃夫人の話では、伊之助氏は非常に情け深い人であり、弟伝次郎の頼みを快く聞き、教会に多額な寄付をしたのであろうと。」と結んでいる。