第三章 釧路正教会の成立
第1節 加藤司祭根室へ着任する
明治29年7月の公会には札幌を始めとし、全道各教会から北海道に司祭を新たに増員して教区を三分し、櫻井司祭を札幌に定住せしめるようにとの深刻な請願が出された。それらの請願には当時、神父の巡回が如何に困難をきわめたか、また信者の神父に対する心情が赤裸々に吐露されている。幸い『札幌正教会百年史』にそれらの請願が平易に記されているので借用する。札幌正教会の請願は次の通りである。
「北海道は面積6919平方里(83515平方キロメートル)あり、国数十一、区数九十あって、その中に信徒の居ない所は殆どありません。しかし、開拓以来日が浅いので交通の便が整ってなく、冬期間になると、両端地の場合全く行き来が出来ないようになります。この広い地にあって、海陸共交通不便の地に一人の神父(函館に一人おりますが、同神父は港外を管轄しないので一人と言います)では、一年一回、一般の信者に接して機密を授けられないのはもちろん、主なる都市部だけでも一回の巡回すら思うようにならない事があります。現に今回の根室では、十五ヶ月目になって神父にお目にかかっています。神父の常住地と定められている根室でさえ、この様な状況ですので、その他の地については申し上げなくてもおわかり頂けると存じます。そんなわけで本年の公会に於いて神父一名の選立をお願いして頂きたく、別図(略)のように北海道を三つに分け、札幌常住の神父には雷電峠・蛇田連線以東、襟裳・宗谷連線以西を、根室常住の神父には襟裳・宗谷連線以東を、函館常住の神父には雷電峠・蛇田連線以西を管轄して頂き度いと存じます。この事は札幌教会からお願いするまでもなく、先年、主教閣下におかれてもその必要を認められ、小松神父を根室に派遣されておられるのであります。本年の公会では根室地方に神父一名をお立て下さるとは存じますが、罪生らの希望を申し述べましてお願いする次第です。」
また、小樽・手宮教会の請願の中には、
「小樽・手宮会創立以来永眠者七名ありましたが、司祭の正式埋葬を受けたものはただ一名であります。人間終極永眠の時には赦罪の言葉を願いたいのですが、これすらかなわなく、これ程の不幸はありません。」
という深刻な訴えも出ている。この公会に北海道の他、中国地方と群馬・秋田・九州地方からも司祭派遣の要請が出されたが、何れも実現しなかった。
この公会に於いて、初めて諸教会の信徒の総数が発表されている。それによると、根室の信徒総数141人、和田・52人、斜古丹・58人、釧路は11人となっている。なお、伝教者の配置は根室・和田・及びその付近地方はシモン東海林となっており、色丹島には唱歌教師兼伝教補助(未定)アレキサンドル室越、釧路は伝教者不在となっている。モイセイ湊副伝教者はこの年、イオアン片倉司祭管轄内の大槌・釜石教会に配置となっている。しかし、シモン東海林師は病気で休職したのであろうか、明治30年の公会議事録の景況表、伝教者配置表にも師の氏名は見あたらない。アレキサンドル室越師一人で根室・和田・色丹と牧会しており、その行動上、釧路への伝教は不可能とならざるを得ない。
翌30年の公会では、櫻井司祭の現実的な報告、以前、北海道を自分の足で伝道した白河のティト小松司祭の具体的な説明、ニコライ主教の決断によって函館・山縣司祭、札幌・櫻井司祭・根室には熊本人吉教会の伝教者イグナティ加藤主計が司祭に叙聖されて赴任し、ここに北海道は三司祭体制となり、道東根室の教権が確立する。根室教会の体制はイグナティ加藤司祭のもとで、根室・和田・標津・色丹島は、再び呼びもどされた副伝教者モイセイ湊、唱歌師兼伝教生アレキサンドル室越両師、釧路は前年通り伝教者不在となっている。
櫻井神父は茨城県出身で、明治30年公会にて札幌正教会に移り、大正7年、盛岡正教会(当時市内加賀野小路に在った)へ転出、昭和6年永眠された。享年70才。墓は盛岡市北山の教会墓地にある。なお、『札幌正教会百年史』によると師の子息らは父の遺志をくみ、札幌の豊平墓地に分骨埋葬したとある。
加藤神父は、明治30年9月24日に根室に着任する。10月27日(日曜日)赴任以来初めての聖体礼儀を執行した。参祷者25,6名、領聖者3名とある。漁期に当たり参祷者が少なかったのであろう。翌18日早々、管轄地標津に巡回している。加藤神父の標津地区巡回記は、当時の地方事情、特に武佐教会の草創者・フィリップ伊藤兄の領洗模様は興味あるので次に要約する。
「根室と標津間には遠太・別海・春別の三駅逓があり、標津町は根室より十六里強、戸数凡そ二百四五十戸、警察支所・役場・登記所・郵便電信局・学校・バプテスト教会等あり目梨郡屈指の市街で、魚産物の多い港町である。しかし、海陸交通が不便なため、物価は内地の三倍にも及び、殊に当地方は気候不順で一年中烈風が吹き荒れ、穀物は勿論、野菜類も大根、馬鈴薯が僅かに出来る程で他の日用品と食料品は一切、根室(根室も悉く内地よりの移入である)に依存している状態である。
各駅逓には、旅行者の便宜を計り雇馬を用意しているが、内地と違って馬丁を付けないので旅行者自身、適当な馬に轡を付けて馬丁とならなければならない。乗馬に巧みな者は兎も角、不熟練な旅行者にとっては大変なことである。しかしながら神父として職務上、常に聖器物その他の荷物を携行しなければならない。人力車、馬車は一切無く、これによらなければ目的地に着くことが出来ないので、専心神佑を黙祷し、寒風にさらされ、悍馬に鞭打ち、昼尚暗い樹林を越え、湿地のぬかるみに肝を冷やし、十八日午後七時、星空に月を仰いで標津の宮嶋駅逓に辿り着く。」
とある。
この標津町には正教の聴聞者四・五名、領洗希望者が一名居る筈であるが、イグナティ神父は初めての巡回なので、その者達を訪ねる術も無く、宿舎でパウエル小川兄(標津町より五里程離れた山中で鮭の孵化事業に従事している)の来訪を待っていたところ、兄は新聴者を伴って神父を訪ねて来た。三人で教理を語り合い夜更け迄及んだ。新聴者は教理を理解し、領洗を決意したので種々機密の心得等を教えて一先ず帰宅させた。この新聴者こそ、明治22年に和田村屯田兵として入植した九州鍋島の士族出身の伊藤繁喜兄である。『根室市史』によると、
「屯田兵制度が廃止されたのは日清戦役の直後、明治二十九年のことで、其の年の四月一日に根室連帯区司令部が設けられ翌三十年四月には、屯田兵第四第四大隊本部が北見国常呂村に、越えて三十二年三月に司令部も釧路へ移り、和田村から兵事関係官衛は全く撤去されて純然たる農村に還元された。」
とある。伊藤兄は29年か30年のはじめに標津に移り、藤野缶詰所に勤め、二才年長のパウエル小川兄に正教の教えを受けていた。
パウエル小川兄は、「同居人で福田時司氏(十六才)なる青年が罪生の勧めで今回、是非領洗を受けたいと申し出ているので、薫別の我が茅屋に来て頂きたい。」と神父に御同行を願われた。加藤神父は、パウエル小川兄の熱心な尽力で2人の新進者が出来たことを神に感謝し、みぞれ混じりの強風にさらされ、道路一面熊笹の藪をかきわけ、所どころ膝までぬかりながら小川兄の案内で4里の原野の路を歩むこと5時間半、午後9時頃ようやく薫別市街に辿り着き旅舎に泊まる。翌朝9時出発。川を渡り、山を越え、11時に小川兄宅に着く。兄宅は薫別より1里弱の人跡稀な山中の一家屋であった。
薫別を出発する際、師は電報で根室の湊兄に機密執行のため、標津の伊藤兄を同道して小川兄宅に来るよう指示していた。24日午前11時頃、湊・伊藤の両兄が風雨を冒して無事到着する。洗礼執行は25日早朝と決め、その夜は5人で晩課を献じ、パウエル兄の痛悔を聴く。2名の領洗次第は師の巡回記より原文で紹介する。
「二十五日午前六時、右孵化場に供しある清潔な水桶(四角な物)を以て洗盤と定め、山中より湧き出る清泉を満たし洗礼機密を執行せり。伊藤氏は聖フィリップ、福田氏は聖ルカの名に依て無事領洗せり。右終わって別室に於いて三時課を献じ、予備聖体にて右二名とパウエル兄に領聖せしむ。一同喜悦満面に溢れたり。嗚呼、人跡稀なる此の寂寥たる山中に於いて聖体機密を執行して、主神を讃揚せしは、恰も窘逐時代を追慕して感慨に堪えざりき。殊にこの孵化場を以て更正の場所となしたるは、誠に奇と言うべき也。」
28日、イグナティ神父はパウエルと再会を約束し、標津町に出てフィリップ伊藤兄に会う。同夜は同地の新聴者佐々木源一氏(漁業組合事務所詰会計員、釧路教会で執事をされていた故サムイル佐々木和雄兄の祖父)・十蔵某(郵便局長)とその家族の為に「人間の目的」と言うことについて2時間程講話し、引き続き教理を勉強する様勧めて29日午後5時頃、12日ぶりに根室に帰る。イグナティ神父はこの後、何度も標津に出張するが、佐々木氏は神父の出張時、宿屋では不便であろうと自分の下宿するその家の六畳間を借りて、神父の説教所とした程であった。フィリップ伊藤兄、パウエル小川兄も新聴者を集めて熱心に正教の布教に努めた。明治32年の公会に於いて、イグナティ神父は「ここには必ず教会の起こるべき見込みあり」と説明しているが、この後、標津教会と発展し、更にフィリップ伊藤兄によって上武佐教会として今日あるのは、明治30年10月25日、薫別の山中に於ける2名の領洗機密に始まるものである。
正教会の神父として来釧したのは、修道司祭アルセニイに次いで、加藤神父が二人目である。この後、釧路へアレキサンドル室越伝教生の派遣となり、信徒の組織化、教会へと発展するもので、イグナティ神父の来釧は、釧路教会史上特筆すべきことであろう。また、当時の釧路事情を知る上でも、『正教新報』に記載されたイグナティ師の巡回記から要約して次に述べる。
明治30年12月17日、イグナティ師は16日付新聞紙上で、商家山縣某に属する社外汽船玄武丸が根室港を午後11時出帆し、釧路で石炭を積み込み東京品川へ直行するという記事を見て、早々出発の準備をし、後事を湊兄に託して午後9時に玄武丸に乗船する。午前6時頃汽笛を鳴らして根室港を出帆する。納沙布岬迄は天気快晴で、船の動揺もなく快適な船旅と思えたが、納沙布岬を曲がるや否や波浪荒くなり、船酔いに悩みながらも同日午後7時に釧路港へ入港する。港は波止場の設備が無く、波の具合を見て船客一人ずつ端艇に乗り込み、磯辺に飛び降りるという状態であった。真砂町三浦旅館に宿をとる。18日、野沙前町(幣舞町)の移住信徒アンティパ藤原喜代松兄を訪ねる。先にあらかじめ通報していたので、大いに喜んで師を迎える。同家は夫婦子供四人悉く「ハリステアニン」である。兄はその外に、三人の信徒に司祭の来釧を知らせる為に一人で飛び歩き、翌19日の晩に藤原兄宅に集め、そこで痛悔・領聖を受けるよう万端の準備をする。
19日、神父は早朝より市街視察に出る。釧路市街は戸数約700戸、根室に続く漁場で支庁(明治30年、郡区役所廃止され全道に19支庁置かれ、釧路にも釧路支庁が設置された)、警察・税務署・裁判所、近郊には炭山・硫黄山もあり、将来有望の地である。新教聖公会は数年来布教し、信徒も5~60名を数え、会堂を浦見町の高台に建て、附属女学校もあり、英人某の私宅もあって、彼らは日夜布教に努めている様である。その他一致教会も布教しており、会堂もあり九城会館と言う看板を掲げて青年子弟を教導している。以上の様な状態であり、「我が正教会としても来年は是非伝教者の派遣を公会に請求し、この地の諸兄姉の願いを叶える覚悟である。」と師は述懐している。
釧路は、イグナティ師が思っていた以上に道東の雄都として発展をしていた。戸数1600余戸、人口約1万人を数え、産業も石炭・硫黄・木材・昆布の生産で港が賑わい、翌年には釧路・帯広間の鉄道予定線が釧路口から測量が開始されようとしていた。
イグナティ師は宿舎で夕飯をすまし、藤原兄宅を訪れると信徒一同参集し、歓喜を表して神父より降福を受ける。信徒中ワッシアン鈴木兄は釧路より一里半程の春採村に住み、今回わざわざ痛悔を受けに来る。ドームナ渡辺姉は異教徒と結婚しているにもかかわらず、師の為に茶菓子と葡萄酒を持参する。イグナティ師は、兄弟一同と共に先ず晩課を献じ、一場の教話をなし、暫時休息の後、一同の痛悔を聴き、彼らに代わって領聖予備規定の晩祷を献じ、禁食の事等を話し、翌朝7時の参会を約して一先ず旅舎に帰る。
20日早朝、アンティパ兄宅に集まり、早々、予備早課を献じ、前夜の痛悔者7名に領聖せしめ、終わって講話をする。午後、ドームナ姉の実父ペトル兄の為に「リティヤ(注:死者の為の祈り)」を献ず。3~4名の兄姉が同伴した。帰途、ワッシアン鈴木兄の案内で兄宅を訪問する。
「兄は宮城県人で以前より釧路地方に移住し、目下家族一同で農業開墾に従事している。部屋に聖像を丁寧に安置し、信仰深く、この度は十七年ぶりに痛悔・領聖を受け神の恩寵に浴したと大いに喜んでいる。朝夕、司祭常住のもとにいる冷信徒に比べ、誠に嘆賞愛すべき信徒である。」
と師は賞賛されている。イグナティ師は教事終わって根室に帰るのであるが、当時、日本郵船の定期航路、その他の船便があるにもかかわらず、最も困難な40余里の陸路を、しかも12月の冬の厳寒期に根室に帰っている。
前述したように千島アイヌは、あらゆる方面に生業を求めて努力したにもかかわらず、その試みはいずれも失敗に終わり、官の思惑と異なり所期の成績を挙げることが出来ず、彼らの中には北千島復帰を望む者もおり、官としても彼らを農牧業に転換させる事に疑問を抱くようになる。その結果、試みに明治30年に初めて彼らの内、三家族10名を北千島の幌莚島に出稼させたところ、その結果が良好であったので、翌年から毎年20名ずつ、北千島警備のため派遣される軍艦に便乗させて出猟させた。
この頃のことであろうか(明治29年、日清戦争が終わると、郡司大尉は再び占守島移住を決意し、択捉島に残る報効義会会員の所へ戻り、新しく募った5,6人の会員とその家族を引き連れて占守島に渡り、本格的な拓地殖産事業に着手した)、先に占守島に渡った郡司大尉は彼らに接触して同情し、北千島の極寒の地では農業は到底見込みがなく、獣猟が唯一の事業であり、それには色丹アイヌの協力が必要だったので、郡司大尉は北海道庁を通じて色丹アイヌの北千島復帰を促した。斎藤東吉師の『日本最古の正教島』によると、
「色丹アイヌはこの事を聞いて一時喜んだ。前述したように色丹は北千島の如く食料(主に海馬肉)が豊富でなく、特に日本政府の監督下で自由が束縛され勝ちであったからである。彼らは北千島復帰と聞いて帰心矢の如き心情であったが、報効義会の全員が異教徒であると知って失望した。<彼らは全能の神の子である。基督正教徒である。如何に困っても異教徒には雇われたくない>と考え、首長は断固拒絶し郡司大尉の幾度もの勧誘にも応じなかった。」
とある。しかしながら、郡司大尉の道庁への請願は世論の喚起ともなり、又明治30年以後の彼らの北千島出猟はその成績が頗る良好であり、色丹アイヌの占守島復帰移住請願に道庁も遂に転帰の利を認め、政府に上申して移転費を請求した。この間の事情は、31年の公会に出席したイグナティ神父の「色丹島請願」にも出ており、次に関係ある箇所について記す。
「目下同島の61名の信徒はよく団結して信徒の風習を守っているが、最近、漁業のため多くの内地人が同島に入り込むようになってから、多くの質朴な島民を誘惑し、その徳風を乱している。同島への巡回は年二回であるが、それも五月から十月までの間で、冬期には海が一面堅い氷の雪原となり、航海は僅々八時間の行程であるが、冬期には以上の理由で如何ともする事が出来ず、その越年中に島民が種々の悪風に誘惑されがちとなる<中略>。同島に伝教者を望むのは前述のように、特に青年層が内地人のために徳風を乱され、はては島民として会堂に参祷する事を拒む者も出て、まことに嘆かわしい事であると、族長ヤコフ氏が私に相談し、私も、私個人で解決する事も出来ず、いずれ公会に請願すると氏に約束して参ったものである<中略>。島民は生活上不便な為、元の幌莚に移住する旨の願書を出したので、或いは同島に移住する事になれば、巡回は年一回も困難になる事であろう。伝教者を彼の地に派遣するのは、専ら彼らを教導するためであるが、また占守には郡司大尉の一行五十名以上の人々も居るので、彼らを布教する事も出来る。同島は実に不便な所なので希望する人もいないであろうが、同島民は誠に憐れむ人々であり、この点大いに憐察されて戴きたいと思う。」
以上の様に熱烈しかも情理を尽くして師は請願している。
更に、千島アイヌの北千島出猟後について述べると、当初は出猟の結果が良好で、その猟獲した毛皮は全部根室支庁に提出して売却し、一部は出稼者に配当した外、年々2~3千円を基本財産に繰り入れる事が出来たが、38年以後、内地人と共同で経営するようになると、年々倍数の出猟者を送ったにもかかわらず損失を重ね、遂に40年契約満了とともに共同経営を止め、更に根室支庁直営を試みたが、これも意の如くならず、明治43年以後出猟を中止するに至った。これは主として次第に猟獲物が減少したからであった。
また、千島アイヌの幌莚移住について道庁も政府に上申した事は前述したが、明治33年、道庁北千島調査隊の派遣があり、この一行の調査結果、
一、彼らの健康上、技術上習慣上、かつて送りたる原始的狩猟生活に復帰し得るや否や
一、北千島の猟業は永続的に土人の生活を保ち得る将来ありや
疑問なりとし、北千島復帰は無用であり、むしろ色丹島に定住させ、干渉保護の程度を定め、自営の風習に導き、基本財産の増殖を図るべしとの意見で、救恤に便宜という建前の強制移住の主旨から一歩も発展するものではなかった。
標題は明治31年の公会に提出された請願である。昨年暮、イグナティ加藤神父が釧路地方初巡回後、六月余にして、今まさに釧路地方の信徒が組織化され、教会が出現する機運になろうとしている。イグナティ師の請願を原文で紹介する。
「釧路・標津・色丹島の余が管轄地は、皆何れも伝教者不在の地なり。本年、釧路に出張巡回の折、一名の伝教者請願ありしを以てこの請願を出したるなり。当地は移住民も次第に増加し、当地の周囲四、五里内外の地に散在する信徒十五、六名もあり、且つ釧路は今後、根室よりも大いに拓くべき見込みのある地なり。故に今日、同地方に伝教者を派遣せしむるは最も肝要にて、当地信徒の希望には、青年なる有為の伝教者を望み、若し伝教者一名の派遣あらば、月費中に一円宛の供給費をなすべしと言えり云々。」
とある。
しかし、釧路地方信徒、色丹ヤコフ首長の懇望とイグナティ師の熱誠溢れる請願にもかかわらず、専任伝教者の派遣は叶わなかった。
因みに、同年の公開議事録の景況表は次のとおりである。
信徒総員 | 現戸数 | 領洗者数 | |
根室 | 112名 | 32戸 | 7名 |
和田 | 79名 | 14戸 | 6名 |
斜古丹 | 61名 | 15戸 | 4名 |
標津 | 3名 | 3戸 | 2名 |
釧路 | 16名 | 1名 |
伝教者は、副伝教者モイセイ湊、伝教生アレキサンドル室越の二名となっている。
ニコライ主教は、かねてから望んでいた色丹島巡回と、イグナティ加藤神父の新しい教区(明治30年函館・札幌・根室と北海道に三教区が出来る)を訪ねる為、掌院セルギイ(後に全ロシアの首長であるモスクワの府主教となる。当時ニコライ主教の補助者として日本に滞在していた)を伴い、明治31年8月5日、東京を出発し、9日に函館より船で道東の根室に、その高貴な足跡を印したのである。
当時根室は、明治28年10月に花咲町明治屋より出火して大火となり、類焼八町に及び焼失家屋889戸(この時、花咲正教会は類焼している)、更に30年12月にも、本町森呉服店より出火し、焼失家屋662戸、幸いこの時は教会の類焼はまぬがれたものの、重なる大火に根室の市街は廃れ、復興の目途立たず、加えて日清戦争後の昆布価格の下落、沿岸漁業不振という状態で、両師の目にはさぞ暗いかげとなって映った事であろう。
今から百年前に、我が正教会の神品である掌院セルギイが、自らの足で歩き、自らの目で見た当時の根室・和田・色丹の教会、我が父祖である当時の信徒らについて記された尊師の『北海道巡回記』は、色々な面で興味があり貴重なものである。それによって座下・尊師の巡回を要約する。
根室教会。8月9日午前11時頃根室港到着。本船まで加藤神父、湊伝教者、松本、野村、佐々木兄ら、海岸には和田・根室の信徒六、七十名が待ち上げ、皆一同主教の御降福を受ける。途中旅館に寄り会堂まで歩行なさる。会堂門前には十字旗、国旗を交差して歓迎の意を表し、主教御入堂するや一同御降福を受ける。その時の会堂内の様子を簡単に述べる。
「主教臨席のもとでイグナティ神父の聖体礼儀が行われた。何人かの子供達が実のところかなり違っていたが、熱心な伝教者モイセイの指揮で歌う。聖体礼儀のあと、主教の教話があり、信者達は皆床に座り、手を膝の上に行儀よく重ね頭をたれていた。大半は隣村の和田からの人々であった。この町の人々はいろいろな仕事にでかけており、特に漁師たちには忙しい時期であった。その代わり子供達は確かに皆出ていた。主教は説教の後で子供達の天主経の朗読をお聞きになる。主教はモイセイ湊の努力をほめ、もっと上手に歌えるようにと練習用の小型オルガンを買うよう十五円を寄付された。
メトリカを調べた。洗礼者二百六名(教会開設以来)その内、百四十五名は死亡したかどこか他の土地に移り、十名は信仰が弱まり教会とはつながりがなく、七名は不明、現在この町には(村を入れず)六十二名いる。午後十四、五軒の信者の家を訪ねた。信者の多くは家におらず漁場に出ていた。」
掌院セルギイは次のような鋭い観察の文を記している。
「正直なところ、根室教会は申し分ないとは言えない。もちろん、教会に熱心できちんと祈祷に出席し、子供達をハリストス教的に立派に育てている大変素晴らしい信者もいる。しかし、とても多くの怠者や、なぜか堕落している人もいる。確かに、以前の富裕さのあとの貧しさがその状況に影響している。多くの家では家族の半分だけがハリステアニンで残りは異教徒である。これはそう良い印ではない。もちろん強制めいた事は許されないが、心から信じている人はハリステアニンになる。良いハリステアニンは自分で模範を示し、不変の信仰をもって親類に影響を与えなければならない。彼らを教会に連れてくるべきである。この為立派な家庭では皆ハリステアニンである。」
これは、現在のハリステアニンにとって普遍的な事で、何時も心がけなければならぬ重要なことであろう。
ニコライ主教御一行はその日、宿舎に泊まり長旅の疲れを癒される。この時、ニコライ主教はイグナティ神父より次のような請願を聞かれる(この事については31年の公会にも提出された)。
「根室より百六十キロメートル離れた釧路にも大変熱心な信者らが居り、古いハリステアニンはどうにか信仰を守ることが出来るが、小生がたまに訪ねることがあっても、教えを聴きたがっている新しい人々に教話をしようにも時間が無い。」
とイグナティ神父は訴え、昨年の暮れに自ら巡回された釧路の新しい牧野について縷々主教に説明し、新聴者のため、また古い信徒を孤立させない為にも釧路に一名の伝教者の配置を願われた。主教は即座に根室教会に配置されたアレキサンドル伝教生を釧路に送る事をお決めになった。
ここにニコライ主教の決断によって、釧路に伝教者が配置され、釧路の牧野が育まれ、後年、釧路の教権が確立される事になる。
明治27年にシモン東海林師は、屯田士族布教のために市街地に一家屋を借り受けて宣教していたが、29年に屯田兵制度が廃止となり、アキラ床田兄家族が落石村に移住(小学校教員として)したので、その空家を無償で教会として居た。パウエル戸田兄は当時、穂香・幌茂尻・厚別を加えた和田村戸長となっている。
8月10日朝8時頃、主教御一行は和田に向かった。掌院セルギイは、彼ら和田の信徒に対して称賛と期待感を寄せて次のように記している。
「和田には十二戸の信者の家があり、皆教会に熱心で『ほとんど一軒も異教徒は居ず』家族皆信者である。道々四軒の信者の家に寄った。人々は大方ひどく貧しかったが、この土地に腰を落ち着けている。これは教会にとって重大な事である。彼らはそんなに簡単に居住地を見捨てて何処かへ移る事は出来ない。それでこの教会は根室程移動による被害を受けていない。」
また、和田会堂(講義所)については次のような描写となっている。
「会堂は、他の家と変わりない兵隊一家族の為に建てられた小さな官舎である。家の中はひどく居心地が悪く、古い畳、新聞紙を貼った壁で天井は無かった。おまけに台所も一緒である。そこに<イロリ>があり、食物の煮たきや暖をとるために絶えず火を焚いている。幹のままの丸太をおき、一方の端から焚きつけ、燃えるに従っておしこんで行く。煙は屋根に切ってある窓の方へ出て行くが、この煙の内たっぷり半分は部屋に充満する。私達はなれないので目がひどく痛む。壁には救世主のイコーナと四福音記者のイコーナがかけてある。
信者達がまだ集まらないので家々を回った。皆、大なり小なり似たような暮らしぶりで、根室とは違い、同じような質の人で信者達は皆立派である。『なぜ別箇の伝教者を置かないのか。なぜ共通点の少ない根室と併合するのか。』という疑問が自然に湧いてくる。それで和田には独立の教会を建て、伝教者を住まわせ、別のメトリカを与える事に決めた。根室から一番近いのに、ここへやって来るのは伝教者にとって難しい事で、冬、ことに厳寒の季節には尚の事である。」
「午後一時頃、信者達が会堂に集まった。皆一番よい着物をきて恭しく主教の祝福を受けた。イグナティ神父は晩祷を始めた。又、モイセイ湊の指揮で子供達が歌った。部屋を一杯にした信者達は大変熱心に祈り、一生懸命十字を切り真剣で純朴であった。祈りのあと主教の説教があり、その後、『これからはあなた方が敬愛するモイセイがここに住み、イグナティ神父が留守にする時だけ根室へ出かける事になる。ここに独立した教会が出来、別のメトリカが出来るであろう。』と重要な事を彼らに説明し、集会に用いている屯田官舎の改装にと主教は三十円を寄付された。」
ニコライ主教が和田に御巡回なされた後、主教の下賜された三十円で直ちに会堂の修繕に着手し、9月25日には根室から加藤神父が来会されて成聖式が行われている。参会者50名内外。茲に和田顕栄教会として根室教会から独立し、モイセイ湊副伝教者が常駐することになった。戸田・田中・狩野の三兄が執事に選ばれ、教会費用の負担等も相談し、今後、信徒一同大いに布教に尽力することを誓い合った。
明治32年の公会議事録には、信徒戸数23戸、総員73名と報告されているが、この時期を最盛期として、その後、衰退を余儀なくされていく。
8月13日朝8時、主教・掌院・イグナティ神父三人は、貫効丸(もう30年も海を飾ってきた鉄・木製の290トンの英国製の古船)で色丹へ出発している。船は定期船なので昼過ぎ上陸して、夕方9時には島を去らなければならなかった。主教一行の来島を知らない首長ヤコフら17人は、皆遠くに漁に出ており(幌莚へ出猟中)、村に残っているのは、女、子供達だけであった。
掌院セルギイは、今は無い聖三者教会について次のように説明している。
「会堂内は大変立派であった。もちろん、豪華ではないが、できる限り清らかに建てられ飾られていた。私達の宣教団から送られたイコーナ、司祭のための祭服・聖器物・十字架・福音書などもあり、屋根の上には鐘も吊ってある。
聖堂から鐘の音が響き渡ると、ハリステアニン達が村から列を為して集まった。祈りは日本語でかなり上手に歌った。先ずイグナティ師が数人の子供達に傅膏機密を授け、産婦の為に祈りを唱えた。次いで掌院が日曜日の晩課を行った。奉事が終わり主教は日本語で説教をした。
『信仰を確固として持ち続け、今までして来たように、変わる事なくハリストスの掟を守るように。それは日本の信者みんなを喜ばせることになる。』と説き『見えざる神、しかし常に私たちを見給う天の父への絶えざる祈り』について話した。『彼らのためにこんなにも配慮なされた日本の天皇と政府に感謝し、特にいつの日か主が真理の光でこの人々をてらされるように祈ってほしい。』とも言った。また、『労働するように、土地を耕すように。』と説いた、『こうした労働こそ主の必須の戒めであり、働く者のみが主を喜ばせることが出来るのである。』これは千島人独特の農作業への嫌悪なので、自然が用意したものだけを採取するという怠惰な習慣、これが彼らをまっすぐ破滅に導く、というようなことを話された。その後、主教は全員に小さな十字架とイコーナを配り皆を祝福した。それから急いでヤコフ首長の家に向かい、根室で求めた日本茶・中国茶・たばこ・砂糖を、婦人達には布地・糸等をヤコフ首長の妻の手を通して皆に分配した。別れが迫り急がねばならなかった。主教は神と守護の天使に恵みを願って、皆に祝福を与え、何度も彼らに十字を切って、暗闇の中をボートに向かった。」
掌院セルギイの炯眼は、彼らハリステアニン達の将来を占うかのように、次のように記している。
「重要な点は、千島住民たちに外部との往来が無いことである。親戚は遠く、日本人たちとも離れている。しかも彼らが異教徒ときては猶の事で、千島住民の方も親しくなかったのである。彼らは自分の狭い環境、自分の村に閉じこもらざるを得なかった。小さな村ではすぐに姻戚関係が出来るのは明瞭で、結婚に際して教会の諸規定を守るのは先に行く程困難になる。千島住民にとって唯一の救いは本当の日本人になる事で、混血は絶えず行われている。そうでもしないことには避けがたい死がこの村に迫っているのである。」
また、別れの嘆きを次のように綴っている。
「ほんとうに愛しい人々。あの子供の様な素朴さを見、この世に孤立無援の彼らを見ると、なんと心が締め付けられることか。彼らは生き長らえるだろうか。そのうめく様な橈の漕ぐかけ声は、彼らの完全な消滅への予感ではないだろうか。
夜九時過ぎ、貫効丸は錨をあげて第二の目的地択捉島の沙那に向かった。二人の信徒(一人はいるらしいという噂の信徒)を訪ねるためであった。
択捉は千島列島中最大で、沙那は戸数百二十、町は海岸に散らばった漁場の中心であった。ここで掌院セルギイは、受洗してから二十年近くも辺境の地に在って、信仰を守り抜いている二人の“かくれた信徒”に巡り会っている。
「主教一行は、ここの戸長の家を訪ねた。戸長の娘は函館教会の学校を卒業しており、主教達の訪問を喜び、毎日祈り、信仰を守っているが、もう久しく痛悔したり領聖したりしていない事を嘆いていた。イグナティ神父は次に来る時の痛悔を打ち合わせした。戸長は大変慇懃な人で、応接間にイコーナをかけ、自分の娘がこの町でただ一人の正教徒であることを公にしていた。戸長にもう一人の信者鈴木の事を尋ねると、彼は戸長の部下で『今執務中なので、あとで桟橋に会いに行く。』との返事であった。恐らくひどい信者なのだろう。ただ口実を作って、桟橋へは来ないだろうと期待もしなかった。
出発の頃、どしゃ降りになった強い雨にもかかわらず、鈴木は一張羅を着てやって来た。皆の前で祝福を受け、自分の聖名も覚えていた。彼の話では受洗してから二十年もたち、それ以来正教の無い土地で勤め、沙那には十五、六年住んでいるという事であった。主教の問いに『信仰は忘れていません。イコーナもあります。』と答えた。主教は記念として小さなイコーナを祝福して与えた。
午後三時半まっすぐ根室に向かったが、海は恐ろしい程の波で二時間程で同島の留別湾に避泊した。留別は小さな百戸位の集落である。イグナティ神父は検察官と共に信者を訪れるため上陸した。噂では一人か二人の信者がいる筈であった。一時間後に喜びに顔を輝かせたイグナティ師が、ここでたった一人の正教徒を探し出して連れて来た。彼はとても立派な信者であった。職業はここの国有林の管理者であり、痛悔や領聖について喜んで話をしていた。残念ながら彼と詳しい話をすることが出来なかった。」
かくして、十三日に色丹へ出発し、十四、五日と色丹・択捉の信徒を訪ね、十六日の朝、根室に帰港している。
明治初期、函館や本州から我が正教徒が最果ての北海の孤島に渡り、しかも聖なる迄の生活を独り守り通し、イグナティ師によってその信仰を温められ、後年、福井神父の時代に沙那正教へと発展したことは、これらのかくれた正教徒あってのことであろう。
本題に入る前に、標津地区正教の揺籃期から興隆に至るまでについて述べる。
フィリップ江口港兄が明治16年から21年まで標津の戸長を務めた正教徒であり、明治19年には兄の勧めによって標津に初めての受洗者(ティト小松師による)が生まれ、シモン東海林師も兄の招請によって標津に正教の伝道を行なったことは前述した通りである。その後、記録が途絶えるが、明治26年にティト小松神父によって根室で授洗されたパウエル小川兄が、同年9月に標津の漁業組合の鮭孵化場の助手として薫別の山中に入り、正教の布教に活躍することになる。シモン東海林師がパウエル兄の要請によって、明治28年8月、30年の春に標津へ出張して新聴者を獲得している。当時の管轄司祭は櫻井神父であったが、師は函館を除く全道を管轄しており、標津地区の密なる巡回は次のイグナティ加藤神父に委ねられ、前述のフィリップ伊藤兄の受洗となる。この伊藤兄とパウエル小川兄の熱心なる布教によって、標津の正教は、福井神父の時代に開花するのである。
ニコライ主教と掌院セルギイは今回の巡回で、標津地区に初めて正教の光をもたらしたフィリップ江口兄(根室在住)をご訪問されている。掌院セルギイは『巡回記』に、兄について次のように記している。
「彼は日本のハリスト教のほんの初期、ニコライ主教が東京に移ったばかりの頃、伝教学校の学生であり、彼自身はその後、伝教者にならなかったらしく、又なったとしても長いことでなかったようである」
フィリップ兄は戸長を辞めた後、根室に出て弁護士を開業し、正教会の議友となって教事に尽力している。明治32年頃、来釧して釧路教会の信徒に名を連ね、翌33年に本会に提出した請願書の中に、信者代表として兄の名が出ている。その後、函館に転住したのであろう。『函館ガンガン寺物語』の著者イオアン厨川勇師(2003年永眠)がフィリップ兄について次のように語っている。
「フィリップ兄は、明治30年代の後半に控訴院(現在の高裁)が在った函館で弁護士をなさっており、大正年間には函館正教会の議友長を務め、大正末期に函館を去り、東京の長男律のもとで老後を送られたようである。俳句を良くし、大正6年には句集を函館で発刊している。弁護士としても、俳人としても立派な人であった」
ニコライ主教は便船待ちで根室に残ることになり、掌院セルギイは、加藤神父の案内で標津と薫別までの90キロの馬の旅に出る。標津には昨年受洗した伊藤、福田両兄の外に、佐々木源一氏らの熱心な聴教者が、また薫別の山奥にパウエル小川兄がいるからである。この内、両師がパウエル小川兄を山中に訪ねる感動的な情景を次に述べる。
イグナティ神父とセルギイ尊師は明治31年8月19日、薫別の鬱蒼たる森の奥深くにある鮭の孵化場にパウエル小川兄を訪問する。掌院セルギイはそこで、素朴ながら美しいまでに聖なる信仰生活を送っているパウエルを、尊師の『北海道巡回記』の中で「世捨て人のような漁師」と題して絶賛している。その中から一部を引用して紹介する。
「すぐ家に案内し、まずザシキに通して、自分は顔を洗い髪をとかして、ハオリを着てあいさつに出てきた。ザシキは清潔で明るく西洋風の窓がついており、上座には生神女マリヤと聖使徒パウエルのイコーナがあり、その下にはいろいろな版の祈祷書と福音書をおく棚、これとならんで隅には神学的な内容の本が置かれた手製の棚がある。パウエルは六年前領洗したが、人家や信者から遠くはなれたこの隠遁所に住まなければならなかった。司祭だけが年一度、痛悔と領聖のため彼を訪ねて来る。心から信仰している立派な信者である。プロテスタントはこのことを知って、その孤立無援の状態を利用して自分の方へひきよせようと、正教信仰へのあらゆる非難をあびせ始めた。しかし、パウエルは心から真理を信じているとわかっていても、プロテスタントの論争でたびたび自分の信仰の弁護ができなくなる。『正教の教えを充分知らないのだから、学ばねばならない』とパウエルは自分に言い聞かせ、私達の宣教会から出版されたあらゆる本を注文し始めた。バプテストの作り話はすぐ暴露し、パウエルは今ではその反駁に応えることができた。そしてバプテストたちはだんだん彼をそっとしておくようになった。また、西洋人の宣教師たちも彼を掴まえようとして嫌わずやって来た。そのうちの一人は教会の敵が使う例のあらゆる手口で、熱心に正教をけなす。これはロシア人の信仰である。日本人がそれを容れるべきではない。ロシア人は偶像崇拝者でイコーナにお辞儀する、と言うのである。これに対してパウエルは簡単にこう答える、『ロシア人がどう信仰しようが、イコーナをどう理解しようが、私の知らないことである。私はロシアにいたことがないのであなたの言葉を確かめることはできないが、私が信仰を受け入れたのはロシア人からでなく神からである。そしてイコーナの尊重と神のみに相応しい崇拝とは完全に区別することができる』。こうして誘惑者は一言もなくひきさがった。その後もパウエルは霊的読み物を欠かさず読み、『正教新報』『金口イオアン説話集』も標津の信者フィリップ伊藤兄と共に読み込み、信仰によって互いに支え、相励まし合うのであった。
この二人の信者のおかげで、周囲の人々も少しずつ信仰の話を聴き始め、何人かは信仰に近づきつつある。実際、これは学識ある伝教者よりも、周囲の環境を発酵させることのできる酵母である」
と、尊師は結んでいる。
択捉島のかくれた正教徒、薫別の山の中のパウエル、みな立派な正教徒であり、清々しく心洗われる思いに駆られる。
掌院セルギイとイグナティ神父は、8月21日午後1時、標津・薫別の旅を終え根室に帰着した。19日に帰京の筈であったニコライ主教は、濃霧のためまだ出港できずにいた。夕方主教と掌院セルギイは尾張丸に乗り込み22日朝4時に函館に向かって出港した。
掌院セルギイはニコライ主教を東京へ送った後、8月24日から10月12日まで室蘭・札幌・岩見沢・永山・増毛・稚内・小樽・岩内・倶知安・寿都・黒松内と1ヶ月半、道央・道北・道南の正教徒を巡回され、10月15日に函館より再度、道東の釧路へ向かい16日に着港なさっている。『正教新報』に当初の釧路の正教徒について次のように記載している。
「十六日。釧路へ着す。信者十二人、近在に十五人あり、室越伝教生在任、晩課執行説教をなす。終わりて信者藤原と言う人の家に新聴者あり教話をなす。
十七日。徒歩にて一里ハルトリへ行く。信者一戸(ワッシアン鈴木の家であろう)七人、外に家族三人、新聴者五、六人あり、正午頃釧路へ帰り信者を訪問す。三時、親睦会を開く。ハルトリの信者も来会し集まる者十八人、明日アンノヒラ(現山鼻地区)へ行かんと思う旨を話せしに恰も好しアンノヒラの信者平井氏小児を連れて来会し、ここにて面談、遂に同地行を見合わせたり。
十八日。十時万歳丸にて函館へ帰り二十一日同所出発、二十二日無事帰京したり」
前述のように主教と掌院セルギイは、8月23日に根室より帰函された。その際、アレキサンドル室越師は主教より辞令をもらい、直ちに釧路に向かい、8月中に釧路へ赴任したのであろう。師は野沙前町(幣舞町)のアンティパ藤原兄の尽力で、釧路村浦見町一番地に借屋をし、そこに教会の看板を掲げている。浦見町洗礼教会である。初代執事にアンティパ藤原清松、議友にはイヤコフ小島兄らが選ばれ、その他、主なる信徒のワッシアン鈴木留治、パウエル窪田範次、フィリップ江口の諸兄が教会の運営・発展に尽力することを誓い合ったことであろう。
伝教生アレキサンドル室越師によって教会が開かれ、教勢大いに伸び、明治32ねんには領洗者12名、翌年には8名を数えている。
明治30年、釧路に釧路支庁が設置された事は前述の通りである。明治31年11月、日本郵船が函館-釧路、根室-網走、南千島間の命令航路を開設し、翌年8月には、釧路港が普通貿易港に指定されている。その背景には石炭・硫黄・木材・水産資源があり、今や官都として、また商都として発展を約束されつつあった。殊に明治33年には官設鉄道釧路線が釧路より起工されている。根室銀行釧路支店が開設され、根室の藤野呉服店及び山縣商店等が釧路に進出し始め、内地からの移住者も著しく増加し、明治33年には根室と共に町制が施行され、戸数2129戸、人口10309名を数えるに至った。まさに根室を凌ぐ勢いである。
明治33年の公会には、次のような請願が釧路教会より出されている。
「 イグナティ神父が毎年半期間
釧路に来住の請願
釧路は僅か1500戸の一市街に過ぎないが、北海道中有望の地であり、今や輸出港となり、当地特有の炭坑事業は、日に盛んに、鉄道の敷設、釧路川の埋立及築港等も開始され、各地からの役員・人夫が船毎に二百、三百と来町し、当町には一軒の空家もない状態です。この様な人々の中には、ハリストス教に注目する人も現れています。当地には正教会と聖公会があり、来住した彼らの多くは牧者を求めて放浪する羊のような人々でありましょう。聖公会には、英国人ラング長老及び日本人伝道師がおり、大いに布教活動をしております。我ら正教徒としては、この趨勢をだまって見逃すわけには行きません。彼ら異教徒の異端の迷いを解いて我が正教に導き、神の恩寵に浴させるには、我が教会の信者を完全に教導し、教会の内部を牧する司祭の在住が最も必要であると思う次第でございます。…つきましては、イグナティ加藤神父を常任地の根室に半年、釧路教会に半年間在任させて戴きたく、当会信徒一同、心から光明なる主教閣下と日本正教会に上申致すものでございます。
北海道釧路正教会
伝道者 アレキサンドル 室越
執 事 アンティパ 藤原
議 友 ヤコフ 小島
信 者 ワッシアン 鈴木
同 フィリップ 江口
同 パウエル 窪田
同 イリネイ 朝山
明治三十三年六月二十七日 」
この請願に対して主教は「イグナティ加藤が在らざるを以て何も定むること能わず、加藤父来らば之を談判せん」と言われたが、この事は実現をみなかった。
因みに、この年の教勢は次の通りである。
根室教会 16戸 42人 副伝教者ステファン赤平
和田教会 10戸 31人 〃
釧路教会 19戸 51人 伝教生アレキサンドル室越
標津教会 4戸 7人 司祭直轄
斜古丹教会 9戸 49人 副伝教者モイセイ湊
以上であり、根室管轄教会の信徒総計は58戸、180名であった。しかし、釧路は道東の西端に位置しており、信徒の大部分は根室を中心に散在している。釧路の請願は実現し得なかったが、教会の発展を願う信徒の意気や壮なりと言うべきであろう。また、当時聖公会の伝道活動に切歯する信徒の心情に心打たれるものがある。
『色丹島歴史年表』に「明治三十二年大谷派創立許可」とある。また、『色丹土人に関する調査』(大正12年根室支庁・浅野属)によると「宗教の状況」の項に次のように記されている。
「明治十七年移住ノ年九月十日ヲ以テ最初ノキリスト大祭ヲ行ウ 爾来日曜日祭日礼拝シ 其ノ信仰甚ダ厚シ
明治二十二年(三十二年の誤植である)五月大谷派本願寺派出所員奥村円心来村六百円ヲ給与シ 漁網等ノ購入ヲ為サシメ 改宗ノ計画実施セル如クナルモ何等反響ナシ<後略>」
とある。
更に、北海道大学付属図書館・北方資料室蔵の『北千島調査報文』(道庁参事官高岡直吉氏の千島巡視復命書、明治34年刊)にも僧円心について次のように記している。高岡氏の千島巡航は明治33年のことである。
「昨年大谷派本願寺ハ奥村円心ナル者ヲ土人教化ノ為メ色丹島ニ派遣シ同地ニ説教所ヲ設クト雖モ未ダ布教上何等ノ為ス所ヲ見ズ只ダ彼等ニ酒ヲ飲マシメ又ハ金品ヲ施シ或ハ誘引シテ上京セシメタルナド土人ノ歓心ヲ迎エテ己ノ教門ニ導カント謀ルモノノ<中略>」
これらの事について明治39,40年に色丹島の伝教者を務めた斎藤東吉師著『日本最古の正教島』より要約して次に述べる。
「明治三十二年五月頃(調査結果の補足)、真宗大谷派の僧侶奥村円心なるものが飄然として色丹島にやって来た。彼は戸長役場の客となり、毎日土人等を集めて酒食の饗応をし始めた。婦女には新しい着物を与え、髪飾りを贈り、又銃器、船、網も希望に応じて彼等の要求を充たした。しかも、彼等は男女とも酒は好物である。彼等は毎日役場に押しかけ僧侶の饗応にあずかった。佛教の有難い話も聞かされた。日本人として生活するにはキリスト教では駄目だとも聞かされた。首長ヤコフは厳重に監視し役場に行くことを禁じた。しかし、土人の男女は相変わらず僧侶を訪れて饗応を受け法話も聞いた。神父が巡回して来ると全員悉く痛悔領聖を受け、主日・祭日は言う迄もなく、朝夕必ず教会に行き祈祷礼拝をする様は如何にも敬虔な態度であった。しかし、この儘に打ち棄てて置けないと考えた首長は、しばしば戸長に談判し、僧侶の退去を迫ったが、戸長は言を左右にして容易に受け入れなかった。この上は根室に行き支庁長に陳情して我等の信仰を擁護しなければと、悲壮な決心をしたヤコフ首長は、副首長アウェリアン以下全員六十八名を教会に集め『ニケヤ信経十二端』を書きその後に“たとえ信仰上の迫害に遭うとも、けっして背教致しません”と誓約させた。首長ヤコフは、青年マキシムを同伴して根室に出て支庁長に、更に札幌に至り時の北海道長官園田安賢に陳情して帰島した」
とある。東吉師は首長ヤコフが更に上京して内務省に同様の陳情を行ない、その際、東京帝大の坪井博士、小金井博士らが発起人となり、北千島首長の歓迎会を上野精養軒に於いて開いたとあるが、後述するようにヤコフ首長は上京していない。また、この年に園田長官が根室視察に訪れているので、その際長官に陳情したのではなかろうか。従って、ヤコフ首長は札幌にも行かなかったのではないだろうか。
鳥居龍蔵博士著『千島アイヌ』の巻頭に、東京に初めて来た千島アイヌ、アウェリアン(副首長)・イヒミイと小金井博士、坪井博士、著者鳥居博士の5人を撮った明治32年12月の写真が載っている。鳥居博士は明治32年5月に軍艦武蔵に乗り、色丹・国後・択捉・占守と一ヶ月余にわたって千島アイヌの調査を行ない『千島アイヌ』を世に出した人である。その写真の由来について説明する。
僧円心は二人の青年を誘い出し、京都へ連れて行き、本山大法要を見学させて彼らを改宗させようとした。首長ヤコフは、副首長アウェリアンに後事を託して遠く幌莚へ出稼している。(首長は32~33年、34~35年と出稼している。出稼は例年6月下旬色丹より軍艦に便乗して目的地へ行き、そこで前年出稼した千島アイヌを便乗させて7月初旬に帰島する)真宗大谷派・本願寺と言えば名だたる宗派である。二人の千島アイヌの離島について戸長、支庁長の許可も容易にとれたことであろう。首長ヤコフが居るならばともかく、湊伝教者としては無理にも止める術もない。根室のイグナティ神父に連絡するだけであったろう。師の心中察するに余りある。また、アウェリアンも心中、後ろめたい気持ちであったろう。以下、斎藤東吉師の『日本最古の正教島』より一部引用する。
「二人は根室・函館と僧侶と行を共にし、根室・函館では教会へも行かず、追っ手が出ているようでビクビクの思いで函館から海路、横浜を経て東京に入った。僧円心は浅草の本願寺へ泊り二人は浅草の某旅館に一週間滞在した。奥村は駿河台の本会には絶対案内しない様に宿の番頭に言いつけて、二人を東京見物に案内させた。二人は親しくなった番頭に頼み、奥村には内密でニコライ堂に案内してもらった。本会の事務所に入った時、“お前達は色丹から坊主にだまされて脱走した者だろう”と頭ごなしに叱られたが、主教様にお目にかかると主教様はニコニコ笑いながら“よく訪ねて来てくれた。身体は達者かね、君達は京都見物に行くそうだが誠に結構な事だ。しかし、僧侶に騙されて信仰を捨てぬように気を付けなされ。私も二人の為に祈祷しましょう”それから旅行には小遣銭も入用であろうと、主教はポケットから金壱封を取り出して二人に与えた。アウェリアンは腹の中では仏教僧侶の金で京都見物をする事は別に信仰を棄てることでは無いから差支えないと考えていたが“あっ悪い事をした。済まなかったと後悔し、この時程有難いと思った事はなかった。何と言ってもニコライ様は大人物です”と往時を述懐するのであった。その後、二人は僧侶に伴われて京都に行き、大谷派本願寺の大法要にも列席し、帰途は東京に立ち寄り、ニコライ主教の祝福を受け、土産まで頂戴して無事色丹へ帰った」
文頭の「東京に初めて来た千島アイヌ」の写真は、この時のアウェリアンとイヒミイであろう。なお、写真の“12月”から考えると、二人は11月初頭に出発し、湊の結氷する前の12月の下旬迄に帰根したものと思う。この後、仏教大谷派との確執が我が正教徒の公会議事録にしばしば出てくる。
前述したように、色丹のヤコフ首長が根室に出て支庁長に請願した際、その衷情をイグナティ神父に打ち明けたのであろう。師はモイセイ湊師を直ちに色丹に配置している。明治32年の公会で師の請願によって、モイセイ湊師は正式に斜古丹教会付きとなり、その後マクシム小畑、フェオドル斎藤、パウエル小川、イサイヤ関、イオン篠原、昭和に入ってからマルク菊池の諸師、皆千島アイヌと生活を共にし、彼らを教化した伝教者である。
明治34年の公会に、釧路正教会伝道者アレキサンドル室越、執事藤原、議友鈴木、窪田兄らの連盟で次のような請願を再度提出する。
「昨年、イグナティ加藤神父を釧路に在住するように請願致しましたが、それも叶わず信徒一同遺憾として居ります。この一年間、当地方の発展めざましく、商業の進歩、鉄道の開通等枚挙に暇なく、従って従来なかった新教各派も当地に進出を始め、聖公会にあっては外国宣教師を動員している状態です。この際、益々牧者在住の必要を痛感して居り、今回は加藤神父の常住地を釧路教会と定めて戴きたく、信徒一同熱望致して居ります」
この年、釧路-白糠間(28キロ)鉄道開通し、4年後には釧路から帯広迄開通する。当時、鉄道の開通は文明の最先端を行く事であり、人口の流入、産業の発展は必然である。釧路教会信徒にとって、この期が、教勢の発展につながると考えたのであろう。釧路教会信徒の熱望にもかかわらず、この公会でイグナティ加藤神父は、次のような請願を出された。
「私は今迄根室に居住して居りましたが、昨年の巡回時に足を痛め、又左の手がリウマチに痛み、しかしそのために休むような事はないが、時候の変り目や、霧のかかる時には身体に痛みを感じて困っている。また、子供も病気で長く全快せず、これは全く土地が身体に適しない為と思う。北海道の中でも根室に比して温暖な地方に常住して、従前通りに巡回しても不便はないと思います。別に支障無ければ函館に常住したいと思う。函館なら根室と違い気候温暖で健康にも良く、又巡回にも差程不便は無いと思い請願書を提出する次第です」
この請願について主教・ティト小松神父は加藤司祭に、函館から根室・釧路へ年二回巡回出来るかどうかと質問され、また函館教会の司祭補充の問題も同時に考慮し、信州の長岡教会のアンドレイ目時金吾司祭が函館・根室教会を管轄することになり、イグナティ加藤神父は、主教の恩情により目時神父と代わり長岡聖神°降臨教会に配属された。この時、ニコライ主教はアンドレイ目時神父に「…特に色丹島の信徒、釧路の信徒は皆よい信者である。宜しく司牧なされ」と言われ、ティト小松司祭もアンドレイ神父に次のように提言している。「…根室に派遣する事が定まれば、標津地方に有力な伝教者を送って欲しい。標津には、佐々木や小川等の有力な信者が居るので将来見込があり、若し彼の地に有力な伝教者が居なければ、司祭は道東の地に長く滞在しなければならず、ひいては、函館教会の信徒にとって不幸なことになる」
以上のように、根室教会は函館の目時神父の管轄となり、釧路・春採地方に副伝教者室越、斜古丹・沙那地区にモイセイ湊、根室・和田には新たにマクシム小畑喜三郎伝教生、標津・羅臼は司祭直轄の体制となる。
イグナティ加藤神父は、昭和になって再度、道東の釧路教会へ赴任するが、師によって標津の不牧の原野が神の恩寵に初めて浴し、北海の択捉島の沙那も神の光明に照らされ、釧路に教会が興された。それにしても道東の霧、冬期の酷寒、北海の荒波は、道東に赴任する神品にとって苛酷な神の試練であったのであろう。
明治34年の公会議事録には根室の信徒戸数16戸、信徒37人と記載されている。ティト小松神父在住の時は、信徒100名以上を擁して道内有数の教会であったが、明治29年以来、根室近海の不漁、加えて二度の大火に町勢衰え、その影響は教会の不振となり、信徒は四方に離散し、教会は逆境の最中にあった。目時神父が根室に巡回して教会を見た時、「その壮麗、荘厳は北海道教会中、函館の外右に出る教会は無い」と嘆称したが、信者の激減には転た今昔の感に堪えないものがあったことと思う。しかし、イオアキム岡、ティト向井、テモフェイ松本ほか8,9名の信徒は終始信仰を変えず、新任の目時司祭を迎えて信徒一同会の建て直しを図り、会堂の地所、家屋を所有者(岡伊之助氏)より買い求めて根室教会の基本財産となし、更に教勢の拡張を計るべく評議決定し、その決意の程を神父に披瀝している。
和田正教会も明治31年に独立して以来、信徒は熱心に信仰を守り、34年の公会議事録には信徒戸数10戸、信徒36人となっている。当時の執事長はパウエル戸田兄であり、兄は和田村の三代目戸長でこの地の名士である。屯田兵少尉・議友田中兄も有為の人材で、実業に転じてその傍ら熱心に布教に尽力し、且つ同兄の献じた二百余坪の教会敷地(主教が和田に来られた時に献納)においおい会堂を新築する計画も持っていた。兵村解除後、落石に小学校教員として移住した庄田兄も、これまで教会に貸与していた家屋(仮会堂)を教会に献納している。以上のように僅か10戸の信徒であるが、いずれも信仰堅く新任目時司祭を敬虔に迎えた。
明治34年の公会議事録には、信徒戸数18戸、信徒数44人とある。この当時の釧路も交通の発達、産業構造の地域的変化によって信者の移動があり、内地からの移住、奥地への移動と信者の定着がままならずと言う状態であったが、釧路教会としてはさほどの変化はなく、主日参祷者は平均20名内外であった。信徒も一致協力して教会会事、会堂の建設に熱心に尽力し、35年の3月には教会敷地として、春採番外地に400坪を購入した。これが現在の教会の位置である。また、婦人会も(当時は慰問会)信者、未信者を問わず広く賛成者を募り、38名の入会者を集めて4月に発会式を行なっている。その後、5月中旬までに20名もの新入者が加わり、58名の婦人会に発展している。毎月一回集まり、教理・教育・婦徳等を勉強し、会員相互の知識交換、会員中疾病・永眠者のある時は慰問して相互の親睦をはかる等、婦人会の設立は、教会を陰から支える大きな力となった。室越伝教者夫人リュボウ千賀姉の努力によるものである。
この年(明治35年)、目時司祭は地元函館教会の復活祭後、根室・色丹に巡回している。従って、この年の復活祭は室越伝教者によって執行されている。この大祭には44名の参祷者があったが、昨年より少なかったと報告されている。当時、釧路の教勢は20戸、42名と記録されているが、相当数の新聴者が参堂していたと思う。当時の交通事情からしても、教会への参堂は容易でなかったことであろう。因みに、平成2年度の釧路教会の復活大祭、降誕祭への参祷者はそれぞれ30名、50名である。教勢は帯広地区、北見地区を含めて61戸、212名で、信徒数は当時に比してはるかに多い。深く考えなければならぬ問題であろう。
目時神父は明治35年6月24日、色丹に巡回する。在村の信者一同歓喜して神父を迎え痛悔、領聖者男女33名、子供9名。当地現在員64名の内、在村者の人数は23名とある。これは昨秋、ヤコフ首長が同族21名を率い占守・幌莚方面に出猟しており、今回の領聖者の内、彼らと交代のため19名が軍艦天龍に乗り出発したので23名が村に残ったのである。公会議事録を見ると、明治33年より総員・戸数・現在員・現在戸数と発表されているが、斜古丹教会については、現在員が神父巡回時の在村人員で、総員との差が千島に出猟中であったのであろう。アンドレイ目時司祭は、この年の公会で函館教会の管轄司祭となるが、師によって授洗された信徒は根室で大人2人、和田・大人1人、釧路・大人7子供3、斜古丹で子供7人で、計大人10名、子供10名の20名である。因みに函館教会の信徒は348人で領洗者は27名である。道東の信徒数は函館のそれに比して半分以下である。領洗者20名の数字は、当時の伝教者、信徒が如何に真剣に正教の宣教に取り組んでいたか、その労に敬意を表するものである。